ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

なぜブログを書くのか~このブログについて

私は思考し、自分の思考を伝達しようと意志する。するとただちに私の知性が技巧(art)をもって何らかの記号を用い、それを組み合わせ、構成し、分析する。こうして1つの表現、1つのイメージができあがる。それは、以降の私にとって、1つの思考の―すなわち非物質的事実の―肖像(portrait)となる物質的事実である。肖像は非物質的事実を私に思い出させ、この肖像を見るたびに私は自分の思考のことを考えるだろう。 

―Jacot, Joseph., Enseignement universel. Droit et philosophie panéstique, Paris, 1838, 11-13
    訳はジャック・ランシエール『無知な教師』,梶田裕・堀容子訳,法政大学出版局,94 を参考

 

このブログは、ある大学で教育学を学ぶ一人の学徒が、ただ思いつくことをとりとめもなく書き留めた、「雑記」である。ブログの文体はひどく散逸的で、非論理的、かつ専断的で多くの誤謬を含む。けれど、このブログを書くことは、私にとって多くの意味を持つものと思われる。

 

ブログに現われた表現は、その時々の私の思考の参照点―「肖像」―である。多くの至らなさを含み、多くの不正確さに目をつぶり、恥も外聞もなく書いてみる。書いてみることによって私の思考は整理され、相対化され、確認可能なものになる。後から、いくらかの知識を得た後に、その参照点に立ち返ることで、私は多くの至らなさに赤面する一方で、無知ゆえに洞察していたいくつかのことを思い出すことが出来る。あるいは私が「至らなかった」論理を確認することができる。

 

これだけの理由であれば、チラシの裏に書き溜めておくか、よくて非公開の場に留めておけば良い。しかし私はこれを公開している。それは2つの理由による。1つは他者による「まなざし」こそが思考の整理に役立つからである。「誰か他の人が私のこのとりとめもない文章を読んでいる」というまさにその事実こそが、私に、私の思考を整理した、私が既に知っていることをくどくどと確認するような、ひとまとまりの文章を書かせるのである。(ただ単に私のための「メモ書き」であれば、内容は当然もっと短くなる。大抵読んだ本の引用一文とかその程度で済む。けれどそれでは残らないものがあるのだ。) 2つは、ブログの記事が生むコミュニケーションを楽しみたいからである。「チラ裏」を公開することで、誰か―それは私の知っている人かも知れないし、SNS上の全く知らない人かもしれない―が、それを読み、何らかの意見/感想をしばしば言表してくれる。これは、極めて有意で得難い経験である。

 

私は自らの興味関心の赴くままにブログを書く。その時々で読んだ本に影響を受け、時勢に刺戟を受けてものを書く。私は、私がここで書いたことについて、責任を持つ気はない。だから、確認するまでもないが、読まれる方も自由に読み、あれこれ言っていただいて構わない。匿名が生む「自由」を楽しみたいからこそ、私はブログを書いているのである。

 

思考はある精神から他の精神へと言葉の翼に乗って飛ぶ。一つ一つの単語はただ一つの思考だけを運ぶことを意図して送り出されるのだが、話す者の知らぬ間に、そして彼の意に反するかのように、この言葉、この単語、この幼虫は、聞く者の意思によって豊穣なものとなる。

- ibid.