ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

共に生きることについて

誰かと共に生きる、ということがこれほどまでに大きな問題となった時代は稀であるかもしれない。日々、「私」とは異なる予想を超えた価値観、生き方を持った「誰か」が提起され、彼らとどう共に生きるかが問われ続けている。こうした問題はしばしば、「共生の倫理」を巡る問題として理解される。

 

 

他者とどう生きるか-この問いが、明確に問題として意識されるのはしばしば、誰かと共に生きさせられる(生きざるをえない)ことによって、深刻なダメージを受けた人びとの間においてである。虐待にせよ、いじめにせよ、ハラスメントにせよ、DVにせよ、日常生活で生まれる様々などうしようもない問題にせよ、共生を強制された他者から受ける深刻なダメージこそが、「共生の倫理」の問題系を駆動させる。しかし、こうした駆動の契機こそが、共生の倫理に関する議論における根本的な矛盾をしばしば生み出している。その矛盾とは、「他者と共に生きる」ことを要請する共生の倫理が、ある考え方を持った「他者と共に生きたくない」という実際生活上の要請によって問題化されている、という矛盾である。やや乱暴に言い換えれば、包摂の倫理の始点が、誰かを倫理に反する悪として排除することから始まっているのである。

 

この矛盾はしばしば、共生の倫理の思考を、多分に説得力を持ったかに見える、誤りの方向へ引っ張っていってしまう。矛盾はしばしば、共生の倫理の問いを「他者と(私は)いかに生きるべきか」から「どのような他者と生きるべきか」へと転化させてしまう。そして、後者の立場から構築された「倫理」は、否定できない「公準」としての振る舞いを見せ始める。すなわち、その「倫理」に従うものが、共に生きるに値する「我々」であり、「倫理」に従わないものは、共に生きるに値しない「他人」である、というように我々/他人を切り分ける疑いえない公準として、「倫理」が機能してしまうようになる。更に、こうした態度は進んで、共生の倫理に啓蒙的な語感を付与する。すなわち、疑いえない公準としての「倫理」を持つものは、持たざるものの上位に立って、それを「啓蒙する」立場を自認するようになる。ここに至って、共生の倫理は、「共生」の思想に反して、孤立した、ある人びとの内輪ルールへと堕していく。


ところで、こうした展開について、私はそれが「説得力」を持っていると評した。なぜか。それは、こうした論理展開自体が、傷ついた弱い人びとの実体験から生成される、無理もない展開だからである。現に、他者によって「私」の内面的な部分を疎外され傷つけられた人びとにとって、そうした加害者と共に生きないこと、自らのような被害を繰り返させないような倫理を構築し、それを啓蒙しようとするのは、当然の防衛策であり、まっとうな「倫理」意識だからである。しかし、大きな問題は、こうした「説得力」が、上記のような論理的道程を辿ってしまうことであり、それを批判しづらい情勢を作り出してしまうことである。


私論によれば、共生の倫理とは、以上のような被害/加害から啓蒙/野蛮の構造へと転化していく二元論的対立を超克したところに構想されなくてはならない問題である。なぜなら、「共に生きる」とは第一義的に、こうした二元論を区切る「/」をいかに放棄するかを突き詰める思考だからである。

 

ただし、共生の倫理をこのように定立したからといって、共生の倫理にはもう一つの、陥りがちな誤った道筋があることにも注意しなくてはならない。それは、二元論を区切る「/」を放棄する方途として「みんなちがってみんないい」を採用することである。なぜなら、「みんなちがってみんないい」を唱えることが、根本的に、「みんなちがう」ということによって駆動される「共生の倫理」の問いを骨抜きにしてしまうからである。

 

「みんなちがってみんないい」はしばしば、大きな暴力へと転化する。それは、「みんな違うが、それはすべて良いことではない」という言説に対して振るわれる暴力である。「みんなちがって、みんないい」は、しばしば、ある特定の「善い」生き方を志向しようとすること-「倫理」的に生きようとすること-全てに対する否定として働く。なぜなら、倫理的に生きるとはまさに、「みんな違うが、目指されるべき正義がある」ことを承認し、そこに向かって生きようとする態度だからである。「みんなちがって、みんないい」の最大の問題点は、倫理的態度それ自体を、「みんなちがって、みんないい」という「倫理」に反するものとして排除の対象としてしまうことにある。

 


さて、以上のように考えてくると、共生の倫理は、極めて困難な足場の上に立つ倫理であるように思われる。なぜなら、それは、真理を公準とする倫理が持つ暴力性にも抗しながら、一方で倫理の持つ切り分けをすべて否定し、フラットに承認を要求する暴力性にも抗しなくてはならないからである。共生の倫理は、この意味で、強くポストモダニズム的立ち位置に存在する倫理意識である。すなわち、固定的な真理なるものの暴力性と不可能性を提起する一方で、今ここにはない真理(正義)のもつ価値を承認し、それを希求し続ける、という両義的にも見える態度を保持し続けなくてはならないのである。ジャーゴンをあえて用いれば、「脱構築」は弁証法が作り出した価値の三次元的上昇の構造をも否定した先でなされる二次元平面上の無邪気な「戯れ」では断じてなくて、「戯れ」を繰り返すことで「世界精神」という安住の地をも脱化し続け、3次元的な「上」へと止揚し続けることを唱えた思想的決意なのであり、この「戯れ」によって希求され続けるものこそが、今ここにはない「共生の倫理」という名の正義である。

 

しかし、こう考えることにもまた、1つの大きな問題が含まれる。それは、このように「共生の倫理」をポストモダニズム的潮流に位置付けたところで、具体的な解決が一切達成されていないことに起因する。すなわち、こうした「位置づけ直し」自体は、価値の実現という問題に対して何ら寄与しない、1つの無邪気な「戯れ」に堕してしまうのだ。共生の倫理は今ここにはない、と論じたところで、今、共に生きることについて苦しみ、傷ついている人びと、共生の倫理を希求し続けている人を実際的に救済する「倫理」は一切導かれない。それどころか、そうした救済を求める人たちに対して、「救いはない」ということを突きつけているにすぎない。

 


では、共生の倫理とは、少なくとも何であるべきなのだろうか。このあたりから私の思考は心もとなくなってくる。頭でっかちにできた思考が、「実践」という問題の前に躊躇してしまう。結局、実践を問われると、安易な「承認」の試みへと傾倒してしまうのだ。上記で批判してきた、「みんなちがって、みんないい」という態度をとることが、実践上の次善策ではないか、とさえ思えてくる。


今の私には、1つの理論的隘路を抜ける「信念」を立てておくことくらいしかできない。それは、「共生」を巡って、ジュディス・バトラーハンナ・アーレントの『イエルサレムアイヒマン』を手がかりに導いている規範的態度である。バトラーはいう。

 

私たちが共に生きようと努力するのは、人類全体に対する愛からでも、平和への純粋な願いからでもない。私たちが共に生きるのは選択の余地がないからである。……私たちは、選択の余地なき社会的世界の究極的価値を肯定するために闘争することを義務付けられている。【ここで言う】肯定とは必ずしも選択することではなく、闘争とは、生の平等的価値へと宿命的に取り組むために自由を行使する際に、認知され、感知されるものである。……「そこ」で起きていることが「ここ」でも起きているということ、また「ここ」が既に他のどこかでもあり、かつこうした事態は必然的にそうである、と私たちが理解するときにのみ、私たちは、「倫理」と今なお呼びうるものの広まり【transport】と強制力【constraint】を知るという形で、困難で変化するグローバルな結び付きを捉える可能性を得るのである。
-Butler, Judith(2015),Notes toward a performance theory of Assembly, Harvard College:122

 

バトラーが語るように、私達はどのように否定しようが共に生きているのであり、共に生きさせられている。だからこそ、私達は共に生きるこの世界を「肯定」するために、共生の倫理に向けて闘争し続けなくてはならないのだ。バトラーの議論の最大の威力は、この「共に生きさせられる」という意識を排除ではなく、共生の倫理に向けた闘争へと向けかえていること、すなわち共に生きているからこそ、「私ではない他者」、「私達ではない他者」を、「私(達)」という〈同〉に還元することのない形で把握する義務を析出している点にある。「共に生きざるを得ない」という事実が、国境、人種、距離、時差といった「私達」と「彼ら」を区切る線を廃し、「世界」のうちにおいて共に生きる存在、というグローバルな視点をもたらすのである。

 

ただし、バトラーの議論は「信念」の域を出ていないことにも眼を配っておく必要があるだろう。なぜなら、バトラーの議論が定立する、「共に生きさせられる」ことによって呼びかけられる「義務」とは、レヴィナス譲りの形而上学的な議論から析出されたものであって、それが全ての人にたちどころに承認される「真理」ではないし、そうであるべきでもないからである。むしろ、理解すべきなのは、バトラーのこの「信念」が共生の倫理の隘路をくぐり抜ける、戦略的な有効性を持っている、という点にあり、かつそれを「信念」として批判的に再構築し続けようとする我々の姿勢の重要性である。

 

 

要は最後の言葉を引きたいがために長々と議論を続けてきたわけであるが、備忘録としてのこの分量もそれほど無意味なものではあるまい、と自己弁護して、この雑文を終えたい。