ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「死」について

あれから1年が経った。

 

この1年、祖父の死に始まり、加えて2人、同年代の訃報に触れた。短い人生の中で最も「死」について感じ考えた1年だった。このことをささやかながら備忘録として、祈念として、今後の決意として、残しておきたい。

 

 

「死」とはどうしようもない事実である。死は永遠の別れであり、我々が経験可能な「生」との隔絶である。いかに願おうが、想起しようが、表象しようが死を経由しては喪失しか思い起こされない。普段いた場所に、彼はもう、もはや、二度と帰ってこない。普段見慣れていた表情とも、言葉とも、眼差しとも、もはや出会うことはできない。

 

死の前には、いかなる言葉も、写真も、映像も、その虚構が暴かれる。それらが写せなかったもの、残せなかったものが死の前では痛いほど露わになる。「表現」とは平生、こうした「○○でない」という部分が豊かに解釈されることで生まれる、柔らかなリアリティをまとっているはずのものなのに、死の前にはこうした「豊かさ」や「柔らかさ」が取り払われ、冷たく鋭い「死」を思い起こすものになってしまう。すべての表現は、死を経由して、鋭く厳しく、見る「私」(「私達」)を貫いていく。

 

 

我々はいろいろな方法で「死」の意味を和らげようとする。「誰かがもういない」という事実を様々な物語で糊塗しようとする。緩やかな意味でいう「宗教」(re=ligion)はまさにこうした働きを持っていた。宗教は神や摂理によって、「もうここにはないもの」(=死)、「いまここにあるもの」(=生)、「まだここにはないもの」(=誕生)の裂け目を再び=結びつけ(re=ligio)てきた。それらの教えもまた、死の前にその虚構が露わになるのだけれど、我々は祈りと信仰によって、それにすがって前を向くのだ。

 

だからといって、私は、宗教のもつ以上のような虚構性をもって、それが無意味であるなどというつもりはない。死を前にしてこそ始めて、「宗教」のもつ力を理解することができた、ということを記録したいのである。何らかの物語がなければ、我々は死の鋭さに向かい続けられない。誰かがもういない、そして私も、私の周りの誰かも、すべてがいつかいなくなるのだ-という事実に、物語抜きでは向かい続けられない。これこそ人間の「生」が胚胎する、人間らしい脆さ、弱さなのだ。「死」は、我々が普段、肩をいからせ誇示している「強さ」を壊し、脆さ、弱さを浮かび上がらせる。その脆さ、弱さに向き合った、「宗教」=「物語」があるからこそ、我々はまた明日を生きていける。もし、物語を抜きにして死の事実を無視できると思うのであれば、そこにはすでに別様の宗教=物語が入り込んでいるだけである。

 

 

世間には、あまりにも強すぎる表現がしばしば溢れている。正しく、善く、健康で、美しい-そんな「強い」思考のあり様ばかりが希求されている。こうした価値観に従わないものは、無知蒙昧な弱者であり、排除されるべきだ-そんな論理が蔓延している。こうした情勢にあって、「強さ」を支えるはずの「弱さ」の論理もまた、見失われているのだ。我々の「弱さ」、そしてその弱さを支えている「宗教」=「物語」のあり様を見つめずして何が「強さ」であろうか。「私は弱くない」と肩をいからせることほど貧弱なことはない。本来の強さとは、「弱さ」と向き合い続け、それでも前を向き続けようとする姿勢ではないか。なぜなら、「弱さ」と向き合い続けるためには、必定、冷酷な「死」の事実と向き合い続けなくてはならないのだから。弱さの否定とは、無意識のうちに、「死」の事実を遠く彼方に追いやり、見ないようにしているだけである。

 

 

 

ここ1年で触れた訃報はいずれも突然だった。メールやLINEで、短い文面で唐突に「死」という事実だけが伝えられた。平生、写真を撮りためているばかりに、死に直面すると故人の写真を見返し、取りまとめざるを得ない。見れば見るほど、そこに写しきれていないものが思い起こされ、喪失感に苛まれた。故人の写真データをまとめ、現像ソフト(Lightroom)に放り込み、1枚1枚、実際色に近づくように現像し直すときほど辛い時間はない。めくってもめくっても、失ってしまった「顔」が私を見つめ続ける。けれど、私の写真によって、私の作業によって、当時の断片を、わずかでも明瞭に思い起こしてくれる人がいることを思えば、その作業から逃げるわけにはいかない。それがいくら虚構だとわかっていても、それは私を含む、我々の救いになる、そう信じて作業を続けた。

 

祖父の遺影は私が撮った写真になった。当時は辛いばかりだったけれど、今、祖母の家に掛けられている遺影を見ると何やら救われた気分になる。笑顔にカメラの方を向いた祖父。それくらいは私でも残せたのだ。こういう心持ちの中で、今、この記事をいったん、終えようと思う。1年を経た、私の決意とともに。