ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「見る」ことと「撮る」ことについて

何かを「見る」ことがあり、何かを「撮る」ことがある。そして、何かが「見える」ことがあり、何かが「撮れる」ことがある。この差異は何なのだろうか。ずいぶんと重たい問のようにも思われるが少し書いてみたいと思う。

 

問いに問いを重ねてみる。「撮る」ためには、「見る」ことが必要なのだろうか。よく「見える」から、よく「撮れる」のだろうか。それとも、よく「撮れる」から、よく「見える」のだろうか。

 

問いばかりであまりおもしろい展開ではないかもしれない。けれど、これは重要な問いである。これを説明するためには、恐らくこの記事を書こうと思った背景を、一度さらっておかねばならないだろう。この背景とは簡単である。写真を撮る〈私〉が見ているものについて、私自身が強く疑問に思う場面が大いにあることが、これらの問いを招来している。私が写真を撮る時、何を見ているのだろうか。恐らく、私は目の前のものを、そのまま見ているわけではない。例えば単焦点レンズで写真を撮る時、私の眼は明らかに画角に限定される。50mmであれば、50mmの画角に向けて身体が動く。そして、カメラとレンズが吐き出してくる絵を、撮る前に、目の前のものに読み込んで見ている。そして、その読み込まれた絵(見られたもの)が望ましいものであるからこそ、私はシャッターを切るのだ。写真を撮る時、私の「眼」は、判断するものの眼になっている。

 

 

けれど、判断は多くの場合狂う。カメラは、私が読み込んでいないものを吐き出してくる。それは、あまりにもしばしば、明らかに私の意図の外側にあるものを出力する。そこで、私は共生/矯正を試みる。設定を見直したり、編集で整えたりする場合、あるいはそれはそういうもんだと受け入れて、自分の「望ましさ」の判定基準をアップデートする場合。その場で、「なぜ」撮っているのかに応じて、この方法は作り変えられる。何にもまして写されなければならないもの(記録されなければならないもの)があれば前者の様式がとられるし、そうでなければ後者の様式がとられる。ただし、この対応は排反ではない。相互に両立する。絵の出方を見て、自分の撮る眼をアップデートしつつ、カメラ側の設定もいじる、ということが実際の大半を占める。

 

我々はしばしば、芸術に対して、ある余剰を読み込みたいと思う。もう少し簡単に言えば、自分の「普通」や「意図」を超えでた何かを読み込みたいと思う。だから写真を撮る、という行為にも、ある余剰を見たくなる。すると、極めてよく見ながら、見方をしばらない、ということが必要になってくる。余剰は、余剰が生まれる隙があるからー余剰が遊ぶ隙があるからー生まれるのだ。余剰は、「見る」と「撮る」が互いにずれているから生まれるのであろう。

 

ところで、この余剰とは、どうにもならないものでもある。〈私〉の理性に対する感性(感情)が、〈私〉との関係性にのみ縛られない他者が、〈私〉が住まうこの世界が、全て、私にとって大いなる余剰である。余剰を見ないようにすることは出来る。それが、古典的な「真理」の役割であり、よく教育された、ということの一つの在り方であっただろう。しかし、そんなものが役に立たない場所で、私は余剰を浴び、余剰は「撮れる」もの、「見える」ものとして私の前にたち現れる。「撮る」と「見る」の間にあって、曖昧な「先」として。

 

 

最初の問いに戻ってみよう。「撮る」と「見る」が違う、ということはわかった。後者の問いについても少し考えてみれば、こんな答えを導くことが出来るかもしれない。すなわち、撮るとは見=直す、ということであり、見るとは撮=り直すということである、というように。撮るとはよく見ることであり、よく見るとは撮り直すことである。撮るとは余剰の可能性を開くことであり、それは見ることによって可能になる。逆もまた然り。見るとは余剰の可能性を開くことであり、それは撮ることによって可能になる。相互に関係した異なる行為として、「見る」と「撮る」を考えることが出来る。

 

話が難しくなりすぎたかもしれない。その理由の一端は私自身が、このことを飲み込みきれないまま書き始め、ついに飲み込めていない、という点にあるだろう。ただし、雑記らしい雑記というのはこんな目的で書かれるものである。