ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

社会問題の「教育化」について

私の見聞する限り、あまり知られていないタームに「教育化」educationalizationというものがある。ターム自体は聞き慣れないかもしれないが、指している意味は極めて明瞭である。すなわち、社会問題の解決を教育に託すこと、教育の問題にすげ替えることを「教育化」と呼ぶ。

 

「教育化」は、古今東西うんざりするほどたくさん行われてきたし、昨今の情勢はますますそうした傾向にあるように思われる。例えば、グローバル化だから英語教育だ、IT化だからプログラミング教育だ、18歳選挙権だから主権者教育だ、18歳成人だから消費者教育だ、というように。もちろん、これ以外にも「多文化共生」の教育、インクルーシブ教育などもこうした「教育化」の論理として跡づけることができるかもしれない。困難な問題の解決を教育を通じて未来の世代へ先送りすること、それが「教育化」の1つの典型的な論理である。

 

しかし、「教育化」が、「よりよい未来」を向いているならばまだ話はわかる。けれど、しばしば「教育化」の誤謬とも言うべき論理が耳につく。「ゆとりだからどうだ」とか「学校教育が学力保障をしていないから日本の国力がどうだ」とか、そういうたぐいの言説である。もちろん、何がしかの相関はあるかもしれない。けれど教育だけがその問題の全てではないし、むしろ、もっと別の論理を棚にあげた議論であるようにしか思えないこともしばしばである。こうした議論に通底するのは、何か、自分が見つけた「失敗」、もっと大きく言えば「自分の」失敗を教育のせいー他人のせいーにして安心したい/解決したように見せたい、という心理である。こうした議論は基本的に生産性がない。生産性がないがあまりにも日常的に行われている。なんでもかんでも「教育改革」したいどっかの国の中央政府がその最たる例である。

 

 

ずいぶん「教育化」の論法について批判的に言を進めてしまったが、「教育化」それ自体が全く正しくない論理か、というとそういうわけでもない。むしろ、社会問題を「教育化」して考えることは、よりよい明日を見据え、子どもたちの今と向き合おうとする真摯な思考態度を引き起こしうる。少なくとも、社会問題を真摯に「教育」の問題として取り上げなおそうとするのであれば、その思考の道程は困難ではあっても極めて有益で、かつ必要なものになるだろう。そして、確かに、社会問題の一端として教育が大きな課題である場合も多いのだ。この部分を正しく切り分けてあげるかぎりにおいて、「教育化」は必須の思考態度である。

 

ところで、現場教員の話を聞いていると、10中8,9、この「教育化」への感情的違和感を口にする。最も単純化していってしまえば「全部俺たちに押し付けやがって」という教員側の感情的反発がそれにあたる。ただし、誠実な教員というものは、何も教育化を全否定するわけではない。可能な範囲から社会の問題を引き受け、それを教育化して考え直し、日々実践につなげようと努力している。私自身の戒めであるが、我々に必要な態度というのは、そういう教員の姿勢に対して、大上段から「ぼくのかんがえたせいぎ」論を振りかぶってやっつけて自己満足しない、というものであろう。

 

少し話がそれた。ただ言いたいことがそれたわけではない。それは、「教育化」に必要な切り分けの話である。すべての「問題」は教育化可能であるように思われるが、教育化以前に一度立ち止まる必要がある。それは本当に教育「だけ」の問題だろうか。それは、教育に丸投げしただけでどうこうできる話なのだろうか。教育化するまえに、今の私たちが変わらねばならないのではないか。そう自問して見るだけで教育に関する議論はずいぶんすっきりする。しばしば忘れがちな論理であるので、備忘録的に記しておく次第である。