ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

早稲田オーキャン立て看のダサさと「早稲田らしさ」

ここ2週間位、早稲田のオープンキャンパスで学生サークルの立て看を撤去して大学側が貼っつけた(クソダサい)看板をめぐって学生界隈で少し騒ぎになっている。記憶が正しければこの立て看と標語は去年辺りから大学側が使い始めているし、去年も全撤去はあった。ただ今年はオーキャン関連で学生サークルに対して締め付けが厳しくなったこともあって若干燃えている。本稿では、その標語の絶望的なダサさについて滔々と書いてみたい。

↑立て看はこういうもの

 

ダサさの根本は、言葉取りに知性がないことにある。一応自負も込めて日本一の私立大学だと思っているが(三田にある宗教法人は知らない)、この言葉取りの絶望的な知性のなさは大学の品位そのものに関わる。そして多くの場合自己矛盾を起こしている。とりあえず見つけられる限りの標語を引用して1つ1つやっつけていこう(レイアウト上の改行はなかったことにする)

 

君たちが世界だ。世界をつくるのは君たちの言葉だ。
You are the world. The world that your words create. 

 

 全体の中で最も目立つ形で貼られている標語である。知性がないポイントはいくつかあるが、まず日本語として読みにくい。君たち=世界と定義されたのに、なぜその世界を「つくる」のは「君たちの言葉」なのだろうか。君たち(立て看に名指された僕たち)そのものが世界であるならば、君(僕)がここに在るだけで世界は成立するのになぜわざわざ言葉でもってつくり直さねばならないのだろうか。

 

そもそも「世界」とは容易に使えるタームではない。ヘーゲルの「世界史」、ハイデガーの「世界内存在」などがぱっと浮かんだが、それこそ「世界」中に多くの世界解釈が存在する。「君たちが世界だ」的な独我論的世界観もないわけではないが、それは別の標語で大学側が提示する「人間を愛せ」的な思想とは全く異なる、認識論上の議論の上でのことだ。「世界をつくるのは君たちの言葉だ」だけなら、まだ了解可能であったが、かっこつけて加えた「君たちが世界だ」が恐ろしくダサい(ついでに言えば立て看を立てることで大学側は世界(=早稲田)をつくる一端を担っているはずの僕たちの言葉をかき消している。世界をつくる言葉は学生だけのものでもないが、当局だけのものでもない。)

 

国籍や、文化や、言語に関係なく、人間を愛そう。

Regardless of nationality,culture or language,open your heart to others.

 

言っていることはわかる。ただこれに関しては英語のほうが意味が通りやすいし暑苦しくない。なぜ「人間を愛そう」などという暑苦しい日本語の言葉取りをしてしまったのだろうか。噂によれば某広告代理店への外注だと聞くが、そういう香りがプンプン漂ってくる。そういう文化圏には生きていないので見ていてキツイ。

 

正義だらけの世界を正せ。

In a world overrun with righteousness, be the one who does what’s right.

 

これまでで、日本語の標語については一番同意できる。一般的な意味で言う世界には「正義」「正論」ばかりがはびこっていてちっとも面白くない。そして、「正義」や「正論」がいつも1つだと信じている人びとはあまりにも多い。正義はひとつならずあり、世界を正す方法だって一つならずある。それを見つけ、それに向かって生きることは極めて重要な構えだ。ただ個人的に英語が気に入らない。『ハムレット』の一節をはっつけておこう。私が最も気に入っている一節である。

 

The time is out of joint. O, cursed spite,
that ever I was born to set it right! 

時間(世界)の蝶番が外れてしまった。ああ、なんと呪われたことか。
それを正すためにこの世に生を受けたとは。

 

去年の自分には絶対に出来ないことをやれ

Do something that last year’s “you” would never imagine you could do.

 

わかる。とてもわかる。願わくば「絶対にできないこと」が「できる」ような防護壁(アジール)に早稲田大学がならんことを。現状は保護をしてくれないどころか、「絶対にできないこと」をできないままに止め、「やってほしいこと」に変えようと必死なようにも見える。

 

教養は、君を自由にする武器だ。

Arm yourselves with knowledge. And freedom will be yours.

 

日本語はわかる。教養を最も素直に英訳すればliberal artsであり、正しく「自由」のための「業」である。ただ、日本語と英語が噛み合っていない。教養=knowledgeはかなり引っかかる。ただ、ニュアンスを取ればまあギリギリいけるかもしれない。

 

異物になれ、異質になれ、異和感をもて

Be unconventional. Be uncommon. Be unexpected.

 

英単語のとり方がダサく日本語とつながらない。そして、異物、異質、異和感なるものがこの大学で正しく大切にされているとは思わない。こうした異なる感じの前につくのは、だいたい「望ましい」という形容詞である。望まれない異質感は、排斥され矯正される。確かに、人と違うことをしようとする姿勢が「大学」という組織に束縛される必要はないし、大学に守ってもらわなくたってできることはできる。けれど大学がそういう価値を認めてくれるに越したことはない。公式にこういう標語を出すのならばぜひ実践してほしい。

 

この世界から、嘘をなくそう。君たちからだ。

Rid the world of lies, starting with your own.

 

「お前らからまず嘘をなくせ 」という最もな指摘はおいておいて、嘘がない世界などというユートピア、もといディストピアを私は生きたいとは思わない。嘘はしばしば我々を生きづらくさせるけれど、それと同じくらい我々を生きやすくさせる。この両義性、どうしようもなさこそが人間臭さである。嘘は望ましいものではないかもしれないけれど、嘘のない世界は私にとっては望ましくない。(あと英語のテンポが悪い。)

 

 

とりあえず見つけられる限り7つの標語を挙げてみた。個人的にこの問題に関して「大学側の抑圧だ!」とか過度に熱くなる気はしない。大学が無条件に学生側の表現のすべてを「公認」せよなどという気はないし、すべてを「公認」してくれなど縋り付く気もない。ただ、「あれは学生が勝手にやってることですから」といいながら黙認するぐらいの度量の広さはできれば見せてほしいものである。

 

大学側が強調しなくたって早稲田には様々な考え方、見方を持った学生・教職員がいる。その現れ、価値観は様々であって、みんながみんな飛び抜けて「変」なわけではないし、変で有りたいわけでもない。ただ本当にいろいろな人がいるということ、彼らがそれぞれ多くの面で違うにもかかわらず同じ学び舎に通い、「早稲田」という共通世界を作っていることが「早稲田らしさ」の本義であるように思うのだ。「早稲田らしさ」は学生だけのものでもないし、教職員だけのものでも、校友だけのものでも、大学当局だけのものでもない。ましてやダサい標語でくくられるほど不格好なものでもない。この点を勘違いして、勝手に「早稲田らしさ」を押し付けようとしてくる様々な言説には学生のものであろうと大学側のものであろうと、「異和感」しか感じない。