ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「みんなちがって、みんないい」言説を乗り越える

「みんなちがって、みんないい」とは金子みすゞが唄った「私と小鳥と鈴と」の一説である。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。 

金子みすゞ,「私と小鳥と鈴と」

 

私は本稿で、この美しい詩そのものについてとやかくいいたいわけではない。「みんなちがって、みんないい」を押し付けてこようとする諸々の言説についてとやかく言いたいのである。一見、競争社会、市場社会において失われがちなモノ、コトの普遍的価値を称揚しているように見える「みんなちがって、みんないい」という言葉の専制的な横行が、多くの価値を不必要に相対化し、多くのものを見えなくしてしまっている。

 

こういうことを書こうと思ったきっかけを示しておこう。以下のツイートの(地獄のような)リプ欄を眺めたことがそのきっかけである。

 

 

先日亡くなった歌丸師匠が、「日本語であり、日本語の文化である日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人である」、巧みな言語によらない「一発ギャグ」のような笑いは芸ではない、と主張しているものである。これについたリプは、うまいことを言っている人もいるが、「いろいろな笑いを認めようとしない老害」とか「ジャンルが違うのに芸じゃないとは言えない」とかそういうたぐいのものが多い。いわば「みんなちがって、みんないい」をいい、そうした価値観を唱えようとしない人を無意識に排斥しようとする言説の数々が唱えられているのである。

 

こうした言説の末恐ろしさはたちどころに理解できる。彼らは恐らく、「主張」の言わんとすることを何も聞こうとしていない。ただ、歌丸師匠が「みんなちがって、みんないい」という価値観に立っていないこと、言い換えれば「何かを価値がないものだと言おうとしている」ことのみをあげつらって批判しようとしているのである。歌丸師匠が言いたかったこと、その言葉の背景とか含みと言ったもの、そういったものを全く見ようとしてはいない。ただ、病的に、「みんなちがって、みんないい」という見方をとっていないことに腹を立てているのである。

 

こうした、いわば「多様性全体主義」とも呼べる(一見あべこべな)考え方はあちこちに蔓延している。確かに、今なお多くの状況において、本来斥けられるべきではない価値の多くが無下に扱われ、尊重されるべき多様性が排斥されていることも事実である。しかし、「多様性は尊重されるべきである」ということが強く言われるあまり、何か特定の価値/考えを追求しようとする姿勢が、排他的で反=多様であるというご無体で表面的な批判が横行してはいないだろうか。

 

教育現場に引きつけて考えてみよう。現場では、しばしば、先生の考え方、教えようとする方向に反した意見を持つ子ども(しばしばその意見には正当性があることが多い)が排斥され、先生の思い通りの答えを言う「いい子」の意見ばかりが評価される、という状況が蔓延している。しかし、現場にはまた、「みんなちがって、みんないい」を否定できない空気感も蔓延してはいないだろうか。先生の考えを植え付けることに腐心する排他的な指導が存在する一方で、「AさんもBさんもみんなちがって、みんないい意見をいっていますね」とまとめるばかりで、そこからどんな価値が取り出されるのか考えようとせず、あるいはAさんとBさんの意見がなぜ/いかに異なっているのかを考えようとしない指導も蔓延しているように思われる。「みんないい意見」なのだから、その「いい意見」に対立する意見を述べることは暗に勧められず、当たり障りのない意見、抽象的でふわふわしていて、なにか言っているようで何も言っていない考え方をすることが「よいことなのだ」という風潮が形成される。そして、こうした風潮が「多様性全体主義」へと向かっていくのである。確固たる意見を持つこと、何か特定の価値に専心し、それに向けて活動していくことは「みんなちがって、みんないい」を否定すること、望ましくないこと、と考えられるようになっていく。

 

しばしば、グローバル時代の問題と絡めて「他者を尊重すること」と「自分の意見を持つこと」がセットで論じられる。前者的な考え方が肥大して「みんなちがって、みんないい」言説が全体性を帯びれば帯びるほど、後者的な「意見」は大衆迎合的で当たり障りのないものに堕していくことは容易に想像がつく。大衆迎合的になる、とはすなわち支配的なものの考え方(現在で言えば資本主義的なモノの考え方)に阿り、それを強化していこうとすることを意味する。これは、まさに「多様性全体主義」が生む非=多様性、すなわち全体主義的体制そのものではないか。そして現に、グローバル時代に国籍を問わない多くの人が交流するようになったにもかかわらず、世界規模で価値観の不寛容な統一がなされているように見えるのである。世界は消費的で反射的な正義言説に溢れ、そこからはみ出す価値観/考え方は疎外され、匿名性の森のなかに潜伏し先鋭化していっているのである。

 

 

「みんなちがって、みんないい」と言うことはいい。そう言うことによって多くの価値が承認され、いまよりもずっと他者も自己も生きやすくなるかもしれない。しかし、そうした価値観を全体化させてはならない。同時に考えなくてはならないのは、「自分の意見を持つこと」、すなわち特定の価値観、考え方を追求し、その先端から世界を見つめてみようとすることであり、そうした見方にたとうとする他者の意見に傾聴し、自らの意見を更新していこうとする姿勢である。「みんなちがって、みんないい」は節度を守って使われねばならない。