ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

『万引き家族』雑感~倫理とか家族とか

==ネタバレ注意==

 

足掛け1ヶ月以上かけて取り組んできた一連のレポート作成が終わったので、流行りにのって『万引き家族』を見てきた。この映画については告知を見たときからなにかブログに書いておこうと思っていた。しかし、いざ書いてみようと思うとなかなか進まない。進まないままに1週間が過ぎ(またそうこうしているうちに2週間が過ぎ)てしまった。この「書き進まなかった」ということを記したほうが雑感としてふさわしいのかもしれない、と思い直している。まずつらつら構成その他諸々についての雑感を記して、「倫理とか家族とか」をテーマに感想を綴りたい。

 

・雑感

本作をどう読むか、鑑賞したその日から私はいろいろな可能性を考えてきたた。例えば、『万引き家族』を物語の束としてのテクストととって、一人一人の人物の物語へと読みほぐしていく読み方とか。しかし、どうにもそうした読み方には歯抜け感が否めない。正確に言えばそこで綴られた諸々の言葉に興ざめ感が在るのである。ではこの興ざめ感とは何なのだろうか。それはこの『万引き家族』という映画が社会派チックすぎるからかもしれない。あるいは、それがわかりやすい「救い」を含まないからかもしれない。そんなことを今は考えている。

 

万引き家族』を最も素直に受け止めれば、それは社会問題の告発として捉えることができるのかもしれない。確かに映画では生々しく貧困が描かれている。貧困とは、モノやカネが不足していることでもあるが、根本的には消費や思考のモードそれ自体が「貧困」化してしまうことを言う。収入はないのに酒・タバコ・パチンコはやめられない。ガラクタは多いのに必需品には事を欠く。目の前の「生」に精一杯で先のこと、他者のことが考えられない。そうであるのに「生活保護」などの制度を利用する方向に向かうことはできない。(もちろんこれは『万引き家族』が「違法」状態であったことにも起因する)こうした有様を貧困状態、及び貧困の帰結として考えることができる。

 

万引き家族』で描かれた貧困を巡る社会問題ーJKリフレ・子どもの貧困・未就学児・児童虐待(ネグレクト)などーはいずれも現代日本において深刻化しつつある問題である。『オールウェイズ三丁目の夕日』などで描かれる「貧しさ」とは異なる後ろ暗さを感じる貧困である。こうした問題は普段の我々からすれば見えにくい。ニュースなどで報じられていても、現実に見えないから、「そんなことはあるのか」という気持ちになりやすい。しかし、「見えない」ことこそが(構造的)貧困の本質なのである。『万引き家族』もまた、ほとんど誰にも見られてはいなかった。(見られないからこそ歪な紐帯が成長し得たとも言う)そして、「公」の光に「発見」されることによってその紐帯は解体/破壊されたのである。

 

もちろん、『万引き家族』の魅力は、こうした社会の暗部を克明に描き出したことのみにあるわけではない。そこで描かれる「人間」ー偽りの家族ーの生気もまたこの映画の魅力であるように思うからである。けれど、この点について、私はなんとか書こうと思っては書き棄て、を繰り返してきた。なぜか。1つには、そこに含まれている物語が多すぎるのである。取って付けたような物語が多いように思われる。何かを読もうと思えば読める、しかし、読み込むほど深みのない物語が多い。少し読み込もうと思えば社会派くささが漂ってくるのである。あるいは、この物語のもつ絶妙な救いの無さに原因があるのかもしれない。しかし、これもまた、ある意味で社会派くさい手付きであるように思われる。凛(一番下の女の子)は家に連れ戻され、治(お父さん)は成長せず、亜紀(JKリフレで働く女の子)に至ってはその先を暗示するものがほとんど見いだされない。なんとはなしに、こうしたキャラクターが、社会派的な手付きのもとに創られた、うさんくさい、取ってつけたような(興ざめの)道具に見えて仕方がないのだ。

 

取ってつけたような道具は、この映画の随所に登場するように思われる。初枝(祖母)がたびたび訪れる元旦那の子どもの家族が例えばそうである。この家族は「いわゆる」中流のイメージを描きすぎている。確かに貧困の対照(コントラスト)として、都合のいい道具かもしれないが、あまりにも典型的すぎて、都合が良すぎるように感じてしまう。あるいは大和屋(雑貨屋・駄菓子屋)のおじいちゃんについてもそれが言える。祥太(息子)の変化の契機として道具的に使われている。そして、わかりやすく「忌中」になって、物語の舞台から退場させられていくのである。

 

こうした諸々のうさんくささを取り払ってみて、このテクストに残る物語は祥太の物語くらいだろうか。祥太が自立し、親を乗り越え(殺し)ていく物語として、このテクストは十分に読み込むことが出来る。万引き→懐疑→補導→釣り→歪な雪だるまと展開する物語はなかなか複雑であるが、彼を自立に導いたのが「凛」である、として見る読み方が最も素直だろうか。彼は被保護者であると同時に保護者になった。家族としての「名」を与えられることで、彼は偽りへの懐疑を持ち、それを壊すことにしたのだ。彼は壊すときーあえてつかまろうとするときー笑顔だった。その笑顔こそが、この映画の1つの到達点であろう。

 

 

・倫理とか家族とか

どうにも映画に対して批判臭い雑感になってしまった。しかし、私はこれらを持って、『万引き家族』がつまらない映画だとか、見る価値のない映画だとか言う気はない。むしろ様々な人が見て、何を感じたか語っていくべきたぐいの映画であろうように思う。であれば、私もそれを記すべきであろう。なぜ書き進まなかったのかを乗り越えて、感想を書くのが以下である。便宜的に「倫理とか家族とか」というサブタイトルを振っておいたのもここにあたる。

 

さて、感想を見やすくするためにサブタイトルをパラフレーズしておこう。私がここで問いたいこと、それは以下の二点である。すなわち彼らは倫理的であったのか、彼らは家族的であったのか、この2点である。まず前者から論じていく。

 

彼らは倫理的であったのか、『万引き家族』に寄せられた数々の下世話で読むに値しない感想の多くはこれに無条件のNoを突きつけている。曰く、いかに貧困であっても万引きはよくない、故に彼らに同情はできない、とかその手の感想である。あまりにも「貧困」なテクスト読解には辟易せざるを得ないが、1つだけ言っておこう。果たしてそれを指摘する人々は「万引き」をしていない、と胸を張って言えるのだろうか。この場合の万引きとは、店に売られているものをくすねる、いわゆる「窃盗罪」に該当する行為だけを指すのではない。「貧困」を無視しながらー彼らを「見えない」ものに留め置きつつー彼らの労働の成果を(「正当な」市場価値から見れば不当な価格で)収奪してはいないだろうか、という問いかけである。なるほどこうした収奪は資本主義体制のもと、ある程度認められている。いちいち、たとえば牛丼チェーンで牛丼を食べながら上のようなことを思っていたら肩が凝って仕方ないだろう。私は常にこうしたことについて罪悪感を持て、と言いたいのではない。しかし、この収奪はあまりにも行き過ぎてはいないだろうか。それを看過し、「万引き」をただ違法だからと盲目的に咎めることに、一体どれだけの正当性があるといえるのだろうか。そして、こうした視角から見て、万引き家族の「倫理」を捉え返してみたとき、彼らのそれは別様に見えてくるはずである。そう捉え返してみうることにこそ、この映画の1つの特質がある。(※)

 

次に家族に関する問題について。これについて、我々は常日頃、「家族」という関係性にあまりにも多くの本来付ける必要のないイメージを付け加えているように思われる。曰く、血がつながっていなくてはならない、とか、親密でなくてはならない(≒血がつながっているならば当然親密であるはずだ)、とか。前者は今作の舞台設定であるからいいとして(※2)、後者について、「親密でない家族」という多くの例外が日々我々の眼の前で展開されているにも関わらず、我々はこうした観念のもとに多くの人(あえて子どもに限定しない)を悲惨な状況に閉じ込めようとしてはいまいか。児童虐待とかDVとかそういう事態にとどまらない大小の暴力が、大小の幸福と同様の頻度で持って家庭ー私圏ーでは繰り返されている。だから私圏は解体されるべきだ、と論じるのではない。なぜなら、私圏は外の世界と隔絶された、いわば囲炉裏の暖かさと暗がりに包まれたような、ある種充足的な空間であるからである。囲炉裏の暖かさなくして我々は外の世界で生きていくことは出来ない。しかし、その囲炉裏の暗がりを不可知のものとして、全く見つめようとしないこともまた許されないだろう。フェミニズムの有名な標語に「個人的なことは政治的なことである」(The personal is political.)という言がある。これが全面的に正しい言説であるとは思わないけれど、個人的な事柄のある種の政治化ー不断の捉え直しーもまた、肝要であろうように思われる。そしてこうした文脈で問い直してみるのだ。「彼らは家族であったのか」と。

 

 

おそらく映画を見て、我々は各々問い返すべきなのだ。今まで当然だと思ってきたこと、あるべきだと思ってきたあり方、見つめようとしてこなかった存在を。そうして何かを、自らの今までのものの見方で把握しきれない異質な何かを、自己の中に付け加えるべきなのだ。『万引き家族』はこうした見方に耐えうる映画である。

 

 

※:こうした物言いは、一種のマルクスっぽさがある。「マルクス」といえば一般には何か腫れ物を触るように思われるかもしれない。ソヴィエトの崩壊ー資本主義の「勝利」ーとともに彼の思想は「死んだ」ものとして埋葬され、未だ彼を取り上げ活動を行う人々は時代遅れの「新」左翼であるなどと思いなされているかもしれない。しかし、マルクスの思想は死んだのだろうか。未だ全く乗り越えられないまま、我々はソビエトと有象無象のマルクス主義者たちが敗れ去ったことを当てこすりにして、それを無視しているだけではないだろうか。私はマルクスの描いた理想を盲目的に実現せよ、とかそういうことをいいたいわけではない。マルクス主義者を自称する気もないし、それを専門にする気概もない。ただ「マルクス」が不当なレッテルのもとに無視されていることを指摘したいだけである。これには2つの起源がある。1つはまさに本稿で指摘するところの、盲目的な遵法意識ー秩序的精神ーである。マルクスの思想は正しく反ー支配秩序的である。しかし、反ー秩序的ではない。秩序を支配的イデオロギーから別様に作り変えようとする思想である。盲目的な遵法意識は結果的に支配的秩序の専制を強化している。もう1つは、彼の遺産を継承したと自称する有象無象のマルクス主義者たちである。彼らによって作り変えられたマルクスの思想は、その本源的な問題提起の多くを脱色し、拡大/縮小解釈してしまった。彼らの理論が破綻したとき、当のマルクスもまた破綻したように思いなされてしまったのである。もちろんマルクスの議論に一切の問題がないわけではない。しかし、そ種々の問題は、彼の「問いの立て方」を全面的に棄却するものではない。

 

 ※2:血の繋がり=肉親、というのは本来的な意味で必要な条件であるのかもしれない。血のつながった親子関係というのは、存在論的な次元で代替不可能であるようにも思われるからである。こうした代替不可能性を援用して、児童虐待が当の子どもによってなかなか告発されない事態を分析する見方もある。血がつながっていなくても代替できる親の役割とそうではない役割、そうした切り分けをせずに、一概に「血縁関係は親子関係に必要ない!」と切り捨てるわけにもいかないだろう。後者的な発想を突き詰めていけば行き過ぎたジェンダーフリーの観念と同じ、カルト的で全体論的な次元にたどりつかざるをえないように思われる。制度指向を持った過度の平等主義者が陥りがちな陥穽である。