ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育は何のために〜アイデンティティ、個性、限界

Twitterを眺めていたらこんな漫画を見つけた

 

言ってしまえばよくある「教育」への疑問というやつである。このツイートが多くの共感を集めていることからもこのことはよくわかる。そして別段、この疑問を「ありきたり」と切り捨てるためにブログを書いているわけではない。(教育学を専攻する院生がこのレベルの問題提起で満足している、というところがとても学芸大っぽい気がするが、別に問題提起そのものが即座に問題なのではない。)この疑問を受け止めながら教育学徒なりの私論を展開するためにブログを書いている。まず、論点を整理し(①)、次にありがちな議論がはらむ問題を指摘し(②・③)、最後に「それでは何ができるか」を記す(④)こととする。

 

① 論点の整理

この漫画が提起している問題を、いわゆる「受験のための教育批判」と取ると少し認識がずれるように思う。簡単にまとめれば、「自分が何者であって、自分が何をしたいのか」にコミットしようとしない教育への批判である。教育を授けてくれる周りの人はみんな自分のことを思ってくれていたはずなのに、その結果できた「自分」は、今目の前のことを云々するのに必要な能力さえ持つことができていなかった、という気付きが教育への疑問へと捉え返されれている、と見ることができる。

 

② 確認すべきことー「教育って何だろう?」という問いの意味

「 教育はなんのためにあるか」。この問と、「よい教育とはなにか」という問は全く同じことを言っている。「教育ってなんだろう?」と問うその背景にはすでにその人自身の考える「よい教育論」が紛れ込んでいる。この漫画を書いた彼女の考える「よい教育」とは端的に言えば、「アイデンティティ形成にコミットする教育」であると言える。(本来的な「アイデンティティ」概念からするとこのまとめ方は幾分誤用であることは認識しているがご容赦いただきたい)確かに、教育はアイデンティティ形成に結果的に強く影響を与えるだろう。しかしそれはあくまで様々な要因が絡まった「結果」の議論でしかないことはしばしば見落とされる。教育は、アイデンティティそれ自体を「形成する」ものではないのだ。アイデンティティはあくまで個々人の間で同定されるものである。この漫画がそうした誤謬を犯している、とは言い切れないがそうした誤謬を呼びかねない漫画であることは確かである。

 

こうした、アイデンティティという、本来「自ら」の側で形成されるものを「教育」の役割として語ろうとするような、いわば「結果的にそうであること」と「役割としてそうあるべきこと」を取り違えた議論は時折散見される。その代表例は「自己肯定感」に関する議論と「個性」に関する議論である。これらもすべて、諸々の要因の上に個人の中に築かれる「結果」であって、それ自体教育の目的とはなりえない。こうした観点からすれば、教育の役割を「自己肯定感を高めること」とか「個性を伸ばすこと」に設定するのはナンセンスであるといえる。

 

③ 「アイデンティティ形成」が教育の役割論(目的論)としてふさわしくないわけ

②において、上記のような議論は「ナンセンス」であると指摘したが、それはナンセンスである以上に有害でさえある。この事を少し確認してみよう。

 

教育の役割論として、本来「自ら」の側で形成されるものを取り入れてしまうことはいくつかの悲惨を生むことになる。1つは、それが評価され選別されるものになることであり、もう1つは、子どもの側にあるはずの、そうした「在り方を形成する能力」を奪うことにつながることである。

 

1つ目について、教育の役割を論じるとは、教育の「ゴール」を設定しようとすることと同義である。一度「ゴール」がセットされれば、「ゴール」に則って教育の「効果」が測定されることになる。これは、「「教育」という営みは、子どもに対して調整された「効果」をもつべきであり、その効果のために大人はコストを割いているのだ」、という我々に広く浸透している意識のために、すぐさまなされることになるだろう。この効果測定の時、実際に「評価」されるのは教育の成果ー教育を受けた子どもたちーである。そして、評価するということは、すなわち優れた者と劣った者を創り出すことである。こうした価値観は、「アイデンティティ」や「個性」を教育の役割論として据えたときに、極めて悲惨な結果をもたらすものになりはしないだろうか。というのも、特定の基準に基づいて「アイデンティティ」や「個性」が評価され序列化されることになるからである。無論今でもそれは、大雑把に言えば「学力」という基準で為されていることである。しかし、「アイデンティティ」とか「個性」とかいうおおつかみの、個々人の側で形成されるものを教育の役割論に転じれば、今まで序列化の対象には、(少なくとも明示的にはなっていなかった)個々人の性格とか、趣味とかそういったものまで含めて序列化されることに繋がるのだ。これは大きな悲惨であろう。(※1)

 

2つ目について、こちらの方が現在進行系で置きている重大な問題である。言い換えれば、アイデンティティ形成だとか、個性を伸ばすことが「教育の役割」にされた結果、個々人によってそれが獲得されるものだ、という視点が忘れ去られていくのだ。アイデンティティが定まらないこと、「自分らしさがない」ことは「教育のせい」に棚上げされて、自分がそれを選択できない、という事実は棚上げされる。これは、「教育」をある種理想化し、サンドバックにすることで自らの責任を逃れようとする思考である。これはあまりにも貧しい発想であると言わざるを得ない。

 

しかし、こうした恨み節に一分の理もないわけではない。というのも、教育は確かにアイデンティティとか個性とかいうものにコミットしてこなかったかもしれないが、それ以上に「教育」という営みによってそれが妨げられていたのではないか、という疑念を抱くことは至極まっとうなことであるからである。というのも、教育ーここでは近代学校教育のことであるがーの目的の1つは、近代社会に相応しい個人の育成ー規律化ーにあるからであり、現に教育現場の多くにおいて、「出る杭」を叩き潰し、「みんなで同じ方向を向く」ことこそが「教育」の名のもとに行われているからである。けれども、それを持って自らがアイデンティティを獲得できないこと、個性がないことを教育のせいにのみ帰するのはお門違いである。なぜなら、それはいついかなる時であっても、「自ら」獲得すべきものだからである。この事を忘れた議論は、1つ目に指摘したような悲惨を招くことになるだろう。

 

④ 教育には何が出来るか

ここまでの議論は否定論ばかりであった。これは認めざるを得ない。教育には○○を求めてはいけない、とか、教育には○○はできない、とかそういった議論ばかりであった。ただもう少しだけ「~~でない」という議論を続けることをお許しいただきたい。

 

以前もこのブログで引いたが、社会学者のルーマンは教育について次のように述べている。(というかここまでの議論の展開の仕方もルーマンっぽさがプンプンする。自戒も込めて)

 

教育者は、後で生じることを知ることはできない。だが、彼は何かが生じることを知っている。……教育は、社会化をただ別種の差異経験をとおして変化させることができるだけだ。
Lihumann, Niklas, 1987, “Strukturelle Defizite. Bemerkungen zurs systemtheoretischen Analyse des Erziehungswesens,” Oelkers, J. u. a., hrsg. “Padagogik, Erziehungseissenschaft und Systemtheorie.” Weihheim/Wasel; Beltz Verlag.;67f

 

こうした議論を踏まえて、しかし問い直そう。教育には何が出来るのだろうか。特に、冒頭で引用したツイートの「疑問」にどう応える事ができるのだろうか。

 

1つ目に、ルーマンを引き受けながら言うとすれば、子どもを支配することをやめようとすることが可能である。言い換えれば、教育の限界を確定しようとすることである。子どもは、我々大人(もはや、このようにくくられる側に私も入るべきなのだろう)が考えているようには振る舞ってくれない、偶然的で不可解な存在ー自己創出する存在ーである。それを我々が理解できる形へと押し込めようとするから無理が生じるのだ。もちろん後述するように、いくつかの面において子どもは支配されなければならないだろう。しかし、必要を超えて子どもの行末を支配しようとすること、子どものあり方を規定しようとすることをやめるべきであろう。そうすれば、少なくとも、個性やアイデンティティを抑圧することから教育は自由になる。

 

2つ目に、子どもを「守る」ことである。何から守るのか、すなわち取り返しのつかない様々な出来事、考えからである。子どもを全く支配しないことは取り返しのつかないあやまちを生む。子どもがいかに制御の効かない存在だとしても、車の前に飛び出す子どもの行動をほっておいたのでは取り返しのつかない事故を生む。「いじめ」を放置することも同様である。「自分」についてうまく理解できていない子どもは、他者の痛みもなおさらうまく理解できないからこそやりすぎる。(理解できないというよりは「限度」がわからない。他者に共感する力は、たくさんの言い訳を覚えた大人より素直に発露されるだろう。)こうした種々の取り返しの付かないことに関して、大人は支配的権力でもって、それを統御しなければならない。その権力の方法は様々であるが、最も効果的なことは、「愛」「信頼」などという言葉の裏にその権力を仕組み、子どもがそれを認識できないような形に留める方法であろう。物理的に、あるいはきつい言葉に頼って支配するよりよっぽど効果があるし、日々巷のお母さんたち、先生たちがやっている方法である。(ただしこうした支配の方法は効果がありすぎる。そしてそれが「支配」であると認識されなさすぎる。「あなたのためを思って」とか「あなたを愛しているからこそ」などという言葉によってどれだけの子どもが惨めに虐げられ、絶望してきただろうか。)(※2)

 

3つ目に、子どもが「画一化していこうとすること」を止めることである。「人と同じこと」は、極めて居心地がいい。他の人と同じ意見であること、他の人と同じ格好をすること、他の人と同じ進路を選択することは極めて居心地がいいのだ。だからこそ、子どもはしばしばそちらの方になびこうとする。もちろんこの「なびこうとすること」は、全ての子どもに共通するわけではない。同じであろうとすることに気味の悪さを感じ、そこから離脱しようとする子どもも多い。しかし、その子らも「人と違うことをしたい」という思考へと画一化していこうとするのだ。

 

こうした画一化へ抗うには、一つのことを思い出させるだけでいい。それは、すべての人はそもそも「違う」ということである。顔貌に始まり、性格から何から全て違う。誰かと違うことは何も特別なことではないのだ。だからこそ、同じになっていこうとすることに対して適宜「中断」を挟み込まなければならない。「あなたはどう考えますか?」「あなたはなにがしたいんですか?」などというように。これを問うこと、これを考える体験を与えることは、教育において十分可能であろう。

 

 

おそらく、教育に出来ることはまだまだ多いだろうし、上記のうちにも思わぬ陥穽が存在していることは疑いのないことである。それゆえ、「現在の私の教育論の到達点」として、この当たりで止めて/留めておこうと思う。とりあえず「教育って何だろう?」から「教育には何が出来るんだろう?」へと問いをずらしてみることから始めるとよいのかもしれない。(※3)

 

 

※1:もちろん、我々の性格とか趣味というものだって別の尺度で常に序列化に晒されているし、序列化の眼差しを向け続けられている。ある性格は優れた性格であり、ある性格は劣った性格である、ある趣味は優れた(好ましい)趣味であり、ある趣味は劣った(ダサい・つまらない・キモい)趣味である、なんて議論は枚挙に暇がない。こうしたある種の価値規範が「見えない」こともそれはそれで問題である。フーコーが指摘するように、一方的な眼差しこそが最大の権力である。それらの権力を「暴く」ことはもちろん重要であるが、それを教育の価値として一元的に開示していくことが重要であるとは思わない。

 

※2:「愛」とは最も効果的な権力行使の方法である。そして、ときに最も悲惨な支配を生む源泉でもある。「博愛」を掲げたフランス革命がいかに悲惨な最後をたどったか、想起すれば理解できるだろう。「愛」のみに依ってたつ関係性は私的関係を越えて適用されるべきではない。それは適切にコントロールされるべき情念であり、無制限に適用されるべきものではない。(このことはしばしば忘れ去られ多くの「メンヘラ」「共依存」を生んでいる。ただしそれが私的関係のうちに留まっているのであれば、大上段に構えてとやかく言う話ではない。本人たちが納得しているならそれでいい。)それゆえ、教育関係としても「愛」は適切ではない。ここにペスタロッチを始めとして多くの友愛的な教育者の陥穽が存在する。

 

※3:今回の議論は、ルソー、フーコールーマン、ビースタを混ぜ合わせながら現代教育批判のスパイスと私論を混ぜて「ガチャガチャポン」とした感じである。本論全体において、例えばランシエール(『無知な教師』)の教育批判への応答は出来ていないことを書き留めておく必要がある。本論の議論もまた、大枠で言えば「説明家の論理」としての誹りを免れない。あるいは、超越論を背景においたような議論をあえて展開していない。そして個人的「興味」は後者にある。このことも加えて付記しておく。