ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育とスポーツ―日大「タックル」事件に対する雑感

日大アメフト部の故意タックル事件の炎上が収まらない。当該行為の異常性もさることながら、火に油を注ぎまくる大学当局の対応がここまでの炎上を引き起こしていることは言うまでもない。(さっさと謝罪すればいいのに)しかし、この話題をこれほどまでに重大なものにしているのは、それだけではない。「なぜ、あんなプレイが起こったのか」という問の背後に重大な構造的問題がちらつく(ダブって見える)からであろう。

 

もう散々議論しつくされているが、本件と絡めながら「プレイ」の背景、あるいはその後の対応の背景に関する問題として、ハラスメントに関する問題、勝利至上主義の問題、体育会閥による学校経営の問題などが取り上げられている。それぞれについて詳細に検討する気はないが、多かれ少なかれ、様々な競技スポーツ/チームで度々問題となることの多くをこの問題は含み、かつ明瞭な形で我々に示してくれる。

 

では、立ち返って考えよう。なぜ、一見すれば、ここまで暴力的で抑圧的なものを生みうる、スポーツなるものを「教育」として導入しなければならないのだろうか。このことを考えることが本論の簡単な趣旨である。ちなみに私は本論で教育とスポーツをめぐる、教育学のありがちな議論というやつをまとめて、それをまとめて批判してみようと試みている。

 

 

古代ギリシャより以前から現在にかけて常に、「身体を動かすこと」は重要な内容として教育の中に組み込まれてきた。現代にあっても、「学校」という箱は、他のどこの施設にも負けないくらい大きな運動施設や資源―校庭・体育館・テニスコート等―を持っていて、それを持つことに対して莫大な予算が投じられているのである。

 

なぜ「身体を動かす」ことがこれほどまでに重視されるのか。その意義は、教育学の初めの方で習う有名なフレーズに集約されている。曰く「健全な精神は健全な肉体に宿る」。この「健全な肉体」を養うのが「身体を動かすこと」、本論の文脈に沿って言えば「スポーツをすること」というやつである。(念の為注釈を付けておくと、フーコーの権力論の話をここでする気はない。確かにスポーツ振興と学校が生みだす権力の関係性に関する議論にフーコーを導入することは至当と言えるし、本論で書かれていることより気づきが多いことであろう。しかし、それは本論で書きたいことではない。)

 

また、スポーツには、ただ「身体を動かすこと」と比べて欠かすことのできない大きな特徴がある。それは「ルール」が存在することである。ただ身体を動かすだけなら我々はいつでもやっている。それを特定のルールに拘束された形で行うことで、それが「スポーツ」になる。

 

ルールが存在することは大きく分けて次の2つのメリットが有る。そして、このメリットによって、スポーツは、「健全な肉体」を涵養し、以って「健全な精神」の発達に資するのである。1つは、自らの身体の動かし方を正しく知ることができるようになる、という側面である。特定の器具を用いて、あるいはフィールドにおいて、あるいは広く「ルール」に従って、自分の思った通りに身体を動かす訓練をつむことで、人は、それをする以前よりも自らの身体のことをよく知るようになる。これによって、人は一般化出来る高い身体能力を獲得することができる。(形式陶冶っぽい言い回しである。ちなみにこれは知的能力の発達にも応用できる議論である。なぜ「レポートの形式」なるものがあるかは、この論理で導くことができる。 )

 

もう1つは、ルールが存在する、というまさにその事実こそが、明白な勝負を成立させる、ということである。ルールがあって初めて勝ち負けが生まれる。日々の中でも我々は多くの「勝ち負け」を付ける必要に迫られる。そうした時に必要なのは「ルール」であること、ルールを遵守した上で、それをより公正なものとするために取り組んでいくことが求められることなどが、スポーツに取り組むことで理解される。(しばしば、こうしたスポーツの側面を取り上げて、真のシティズンシップとはスポーツマンシップに類似する、なんていい方がされる。)

 

 以上のようなことが、学校教育にスポーツを取り入れる今日的な意義である。「今日的な」というのは、過去においてはスポーツを取り入れるもっと実際的な意義(戦場で生き残るとかそういうたぐいのもの)が存在していたからである。

 

 

しかし、学校教育の現場のみならず、ひろくスポーツを取り巻いている雰囲気を見ていると、上記のような意義はどうにもうまく達成されていないことに気付かされる。健全な肉体を持っているはずの人びとが、全く不健全な精神性に落ち込んでいる、という状況はままある。教育学の有りがちな議論では、この原因として、スポーツに、他者と比較した「勝利」を追求する競技性が過度に持ち込まれたからだ、と診断しようとする。

 

ここで、よく言われるスポーツに関する区分を導入してみる。1つは、仮に「競技スポーツ」としよう。それは勝利を追求することに主眼を置いたスポーツへの取り組み方である。もう1つを仮に「娯楽スポーツ」としよう。それはスポーツをすることそれ自体に主眼を置いたスポーツへの取り組み方であるものである。両者は、無論、スポーツの種類―アメフトとかサッカーとか野球とか水泳とか―で区別されるものではない。

 

教育学の議論でしばしば言われることは、本来教育的意義があるのは、「娯楽スポーツ」としてのスポーツであって、「競技スポーツ」的精神ではない、という論調である。これには確かに納得できる側面がいくつもある。そして、こうした観点―非=競技的なスポーツのあり方―こそが、日本の学校教育における「スポーツ」を巡ってひどく欠けている、という指摘もよく理解できる。これについて少し考えてみよう。

 

人は「他者と比較して優越したい」と(恐らく)思うものである。そしてそれを求める時、しばしば極めて残忍になる。例えばスポーツの勝ち負けにおいて、何か自分の納得行かないことがあった時、聞くに堪えない言葉を撒き散らす子どもたちを見たことがない人はいないだろう。しかし、日本の学校教育におけるスポーツは、この「他者と比較した優越」を殊更に煽っているように見えるのである。そして、私が上述したような、スポーツに固有の「教育的意義」が看過され、スポーツという手段が目的化されている、と言える。

 

学校教育におけるスポーツが、「他者と比較した優越」を強調する論理―「競技スポーツ」的論理―に偏重している、という例はいくらでも見いだすことが出来る。中学・高校で部活動(クラブ活動)こそが学校スポーツの担い手として見なされていることがその一例である。戦後、(結果的に)「甲子園」を一個の象徴として組織化された部活動は、「スポーツを楽しむため」に組織されているよりはむしろ、競技性に重きをおいて組織されていることは容易に理解できる。そこでは絶え間ない競争が行われ、他者と比して勝利することが求められる。そういう在り方ではない、いわば「サークル活動」のような部活動を見つけることは極めて困難である。こうした環境の中で、「体育」の時間にまで「競技性」が持ち込まれる。教育的意義を持つはずの娯楽スポーツ像はどんどん疎外されていく。

 

一方、娯楽スポーツは、こうした競技性とはなるべく距離を取ろうとする。そこから距離を取ることによって、ルールを持った運動としてのスポーツの教育的意義が顕在化する。そして、日々過去の自分を乗り越えていく成長の感覚を持つことで、「体を動かす」ことが極めて愉快なものへと変化する。この限りにおいて、スポーツは健全な肉体を涵養し、以って健全な精神を養うのである。だから、教育学の議論では、スローガンのように「競技スポーツ」から「娯楽スポーツ」へと唱えられたりするのである。

 

 

ここまで書いて終わるなら、どんなに説得的な議論であっただろう。「学校教育におけるスポーツを、競技スポーツから娯楽スポーツへ、一生涯楽しめる娯楽スポーツの経験的基盤へと作り変えるべきである。そして、これは喫緊の問題である。なぜなら、競技スポーツを追求する限り、学校スポーツは教育的意義を失い、日大「タックリ」事件のような、むしろ極めて反=教育的な精神を教えることになるからである」というように。しかし私はここで終わろうとは思わない。

 

 

私は、「競技スポーツ」的精神に基づいた経験なくして、「娯楽スポーツ」的精神が成り立つかどうか、幾分疑問を持つのである。果たして人は、過去の自分との比較の上に立って、それを乗り越えることのみを糧として、物事に全力で取り組めるのだろうか。世の中で「優れている」という承認を受けること―自己承認欲求を充足すること―を度外視して、「過去の自分よりは成長した」ことのみに価値を見いだすことが出来る人がどれだけ言えるだろうか。こうした、「承認欲求」の自律は、他者から優越しようと、何かに全力で取り組んだ結果生まれる感情であって、他律的な努力の経験を抜きにして生まれるものではないのではないだろうか。

 

 

もしかしたら私は、競争社会、メリトクラシーな世の中に毒されすぎているのかもしれない。というのも、上記のような一個の「諦め」とか「弱さ」は私の個人的経験から来ているからである。私は「競泳」を9年ほどやってきた。それなりに頑張ったとは思うが辛いことも極めて多かった。というのも、自分がどれだけ頑張っても及ばないものがあることをまざまざと見せつけられた9年間だったからである。私の努力に対するモチベーションのいくらかは、「他者と比べて自分が劣っていること」を認めたくなかったものであったという記憶がある。(いわゆる「負けん気」というやつである)こうした努力は競泳に関してはついに実らなかったけど、そのかわりにいくばくかの自律性を身につけられたようにも思う。

 

愚にもつかない結論を述べて記事を締めよう。必要なのは、(少なくとも学校教育における)スポーツの精神を、競技性にも娯楽性にも、どちらにも「偏重」させないことである。というのも、どちらかに偏重することで代えがたいものが失われるように思われるからである。必要なのは、「スポーツ」の名のもとに何らかの抗いがたい「暴力」が発生していないか常に点検することである。この点検を超えた先にスポーツをどう捉えるかは、それぞれ判断されればよい。そして、この点検さえ行っていれば、スポーツは、ぜひとも教育内容の一環に加えられる固有の価値を持っているように思うのである。