ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「教師」の役割とは何か

教育活動の担い手としての「教師」はいろいろな場面で問題になる。秩序だって教師に関する問題を書き連ねて様々論じようと思えばこんなブログなんて形で発信することでもない。ただいろいろとぐるぐると頭の中に渦巻いている考えとやらをまとめるための雑記である。

 

教師の役割論は、近年、様々な形で問題になる。だいたい「アクティブ・ラーニング」(これは学習指導要領上は死語である)のご時世にあやかって教師の役割変化として議論される。これからの教師は「教え込む」存在ではなくて、「学びをサポートする」存在に変化するなどと言われる。教師は教壇で超然と教える存在ではなくて、生徒が自ら考えること、「学ぶ」ことをサポートする存在になるべきだ、というように。しかし、この議論は役割論における重要な点を論じそこねている。すなわち、教師が「教え込む」存在であるか、「サポートする」存在であるかという議論と、教師が「よい教育活動を行う」存在か否かという議論は位相がずれているのだ。私見によれば、教師の役割は第一に「よい教育活動を行う」ことであって、彼がどういうスタイルで教育活動を行うかとは何ら関係がない。このことを少し書いてみる。

 

 

このことを議論するためにはまず「よい教育」を定義することが必要である。そして、それこそが教師の役割論そのものを規定する。しかしこれは極めて困難である。なぜなら、万人に共通する「良さ」が、少なくとも経験的な領域では想定しえないからである。(絶対的な「善性」は超越論的な、カント的に言えば虚焦点の領域に一応想定できる)それゆえ、ここでは暫定的に私にとっての「良さ」を定義しておこう。私にとってよい教育をする教師とは、私に新しい地平を見せてくれた/地平を見るきっかけをつくってくれた存在である。

 

こうした価値基準に従えば、その教師がどのような方法で教育活動(典型的には授業)を行ったかどうかはほとんど関係がないことがたちどころに理解できる。私が尊敬する「先生」というのは何人かいるが、その先生が「教え込む」存在であったことはしばしばである。これは、生徒がアクティブであるかどうかが、「よい教育」を測る指標ではありえないことの示唆でも有り、教師の役割論を「教え込み」から「サポーターへ」などというつまらない二項対立で終わらせてしまう不毛さもここから理解できる。

 

何にせよ、教師の役割を考えるためには、「よい教育とは何か」という問と向き合う必要がある。そして次に考えるべきは、それではそうした「よい教育」を行いうる教師に必要な条件とはなんであるか、という問である。ここで初めて「学び」の「サポーター」としての教師、なんていう話が出てくる。しかし、上述した通り、学びのサポーターであることは、よい教育をするための必要条件ではない。そんな態度をとらなくても学び手は勝手に学ぶこともあるのだ。

 

それでは、よい教育をすることを役割とした教師に必要な条件とはなんであろうか。たくさん知識を持つことか、学び手のことを理解していることか、それとももっと別のことか。とりあえずこの2つについても否定することから始めよう。

 

まず、「博識である」ことはよい教師の必要条件とはなりえない、という件について論ずる。確かに博識である教師は、よい教師である可能性が、そうでない教師に比べて高いことは確かである。しかし、よい教師である⇒博識であるは成立しない。これは「教授法」が下手くそだからとか、そういう問題にとどまる話ではない。そもそも、学び手が教師の知識を、教師が持っている方法で完全に取得することは、両者が違う人間であるという原則からして不可能であるからであり、逆に、教師が知らないこと、教師が意識していない多くのことを学び手は自ら学ぶからである。

 

次に、「学び手のことを理解している」こともよい教師の条件とは必ずしも言えない。確かに、学び手のことを理解している教師は、よい教師である可能性が極めて高い。一般論的に言えば、学び手の性格、水準などを理解していることは、よい教育を行うために王道とも言うべきことである。この理解のために教育心理学の知見を用い、「なるべく」よい教育を行おうとすることは極めて肝要である。しかし、学び手のことを全く考慮に入れていない「おしゃべり」が、よい教育であることはしばしばある。そして私の尊敬する「よい教師」が、全員が全員私の「よい理解者」であったとは思わない。 

 

 

では、私が思うよい教師の条件とはなにか。それは、端的に言えば「私」(この場合は学び手)と適切な距離にいる「他者」である、ということである。

 

例えば、教師が私の知っていることばかり、あるいは私と同じような論理でばかり話しているとしたら、私は彼をよい教師とは見なさないだろう。逆に、全く知らないことを、あまりにも全く知らない形で(例えば私が全くわからない言語で)教えられたとしても、私は彼をよい教師とはみなさない。あるいは、全く無遠慮に、抑圧的に、「私」の内面に至るまでズケズケと入ってくるような教師もまた、よい教師ではない。

 

この距離感を理解するためには、必ずしも個別の「生徒」を理解している必要はない。もっと普遍的で一般的なコミュニケーションの距離感を理解しているだけで事足りる。生徒との距離というのは、一つにかっちり決まるものでもない。比較的親密な距離感の教師があってもいいし、比較的超然とした距離感の教師があってもいい。ただし、どちらも離れすぎないこと、そして「離れていること」を自覚し振る舞うことがよい教師の最低条件である。

 

人は自らの先端においてしか学ぶことができない、という有名な格言が示すように、彼が私の外縁を刺激してくれるような、そういう距離感で語りかけてくれる場合において、教師はよい教師である。この語り、すなわち「教え」こそが私の外縁を突き崩す。私の外縁が崩れたとき、私は新たな視点を得、なにか彼が語っていること以外のことを含めて勝手に学ぶ。これこそが、おそらく第一義的な教師の役割である、と最近考えている。

 

P.S.

少しメタい話をしておこう。以上のような教師論、あるいは「教え」論は、大部分ランシエールやそれに影響を受けたビースタっぽさがある。白状して言えば私は最近それらのテクストに部分的に触れている。書いてみることで彼らに接近してみようとしていることも本論の目的であるが、私の結論が彼らとどれくらい違うのか、彼らを部分的にしか読んでいない段階で構想してみて比較検討してみることが本論のもう一つの目的である。

 

ビースタの話で言えば、彼は上記のような議論の前提として近年の教育界の風潮として「教育の学習化」という概念を導入し、アーレントレヴィナスを用いて「教え」の脱=学習化を論じようとする。アーレントレヴィナスを並列して用いることが正しい試みであるかは置いておいて、私はあえて本論をそれらの思想家のイメージから切り離して構想してみたことは一応書いておきたい。論文のような形にするのであれば、上記のような曖昧な「よい教育」定義は用いないし、ちゃんとアーレントを論じながらビースタとの峻別を論じようとするだろうが、あえてそれらをアンラーニングした上で、私にとって身近な言葉/経験に引き寄せて教師論を書いてみたかったのである。後で読み返した時に赤面したくなるような「至らなさ」があること、しかし至らなさの中にビギナーズラックを見出したい、という思いからわずかな字数にまとめてみた次第である。

 

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