ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「自分らしく」なりたい人たちに寄せて

私は、最近自分の「言葉」を失いつづけている。これは、私が最近、すこしまともに勉強ができるようになってきた、ということに恐らく関係していると勝手に自負している。『シラノ・ド・ベルジュラック』において「実が無いだけ雄弁である」と言われていることの反意であるかどうかわからないが、自分がいかに「実」がないかを理解するにつけ、私は自分の雄弁さを失っている。

 

 

「言葉」を失う私が出来ること、それはもっと身近な、なんでもない経験を書いてみることにもある。少し回りくどく言えば、ある人生の一時期に存在する「他者と違う「何者」感」を失っていく「私」の物語を書くことであり、もっと直接的に言えば、「社会」への大きな不安と、「学校」への心残り、という、「今」の感情を留め置こうという試みである。そして恐らく、すぐ後に確認するように、この記事は、広く「自分らしく」なりたい人たちに寄せた記事になる。

 

 

アーレントは―という時点で既に私が「言葉」を失った証左であるが―次のように言う。

 

他人と異なる唯一の「誰」は、もともとは触知できないものである…。その人が誰であり、誰であったかということがわかるのは、ただその人自身が主人公である物語-いいかえればその人の伝記-を知る場合だけである。

ハンナ・アーレント,『人間の条件』

 

他人と異なる唯一の「誰」、すなわち「何者」かである「私」、表題のとおりに言えば「自分らしい」人は触知できないとアーレントはいう。「私」が誰であるかは言葉の網の目では捉えられず、誰であったかのみが「物語」という型式を取ってのみ、表象されうる。

 

私が2年前に嘆いていたこと(ブログ末尾にリンク)、それは自分がある側面において「主人公」であった高校時代を失ったこと、あるいは失ったように見えたことであった。そして今、私と同世代の大学生たち、すなわち「学校」という物語を担保してくれる場を捨て、社会に出ていこうとする学生たちが共有する不安もまた、似たようなものであるのかもしれない。日々、「企業が求める人材」に擬態し、同じ服を着て仮面をかぶる学生たち、別にそれが「つまらないこと」とか「批判されるべきこと」だとか言う気はなくて、そうなっていく自分たちに対する一種の不安と、今への名残惜しさを抱えていること、そういった感情を残しておきたいという意図がこの記事を書かせていることは、冒頭でもしてきした。

 

何かを卒えることと、どこかに入ること、この儀式を繰り返すことで我々の人生の青年期は消費されていく。家庭から幼稚園(または保育園)へ、そこから小学校、中学校、高校、大学とたどってきた私たちが向かう先にはいつも大きな不安とちっぽけな期待が入り混じっていた。その場その場で、「私」は「私らしい」物語の一端を紡いできた。最初、それがうまく紡げない時、我々は大いに不安を感じ絶望する。何やら必死にやっている内に、気づいたら丸く収まっていることも多い。あるいは、それを紡ぐこと、「意味」を見いだすことに失敗し、それをなげうってしまうことも多い。けれどそこから、大部分の人は立ち直り、今日も生きている。多くの人がここまできて、明日に進む。

 

 

ここで語り口を変えてみて、こういうエゴイスティックで脳天気で希望的な記述を揺るがしてみよう。

 

 

 

 

 

「お前は誰だ」

 

 

 

 

 

こう問われた時に、物語を紡いできた「私」は動揺する。物語の一端を披瀝してそれを凌ぐのも悪くない。けれどその物語がいかに「フィクション」であるか、自分には痛いほどよくわかる。なぜなら自分が自分について語る物語は全てフィクションになりうるし、現に一個のフィクションそのものだったからである。

 

 

 

 

「お前は誰だ」

 

 

 

 

また問われる。必死に私らしさを物語るのもの難しくなってくる。思いついて他の人の「まなざし」を考えてみようとする。他の人と比べて自分はどうだったか、この視点で物語を作ってみようとする。そしてだんだん絶望する。他の人とそう違わない自分、違ったとしても優れていない自分に。うんざりしているのにまた問われる。

 

 

 

 

 

「お前は誰だ」

 

 

 

 

そして気づく。「私」の物語が他者によって支配されていることに。他者がいて始めて私は物語ることができて、私らしさは、まさにその他者のまなざし、評価によって作られていることに。

 

三度、いつもと違う書き方をして、出来の悪い物語を作ってみた。「お前は誰だ」という問ほど、心臓に悪い、嫌になる問はない。そしてその先に「お前は他の人と同じつまらないやつだな」という他者のまなざしが存在することを想起することほど怖いことはない。けれど確かにそう言われることは想定できるのだ。私が私である必要はない。他の誰でもいい。私らしさはだいたい劣位なもの、克服されねばならない、と。

 

 

正直、ここからどう議論を展開しようものか、「言葉」を失った私は迷っている。レヴィナスの「顔」を用いて、「お前は誰だ」という問が、常日頃、他者との非=選択的で超越的な出会いを通じて投げかけられていて、私の私らしさは、なにも就活などというイベントに依らずとも、常に揺らぎ作り変えられていることをいってもいい。あるいは「私らしさ」は克服されねばならない、というメンタリティを作りだすメカニズムをアーレントの「社会的なもの批判」や「暗い時代」批判を援用して批判してもいい。しかし、こうした啓蒙的な書き口は今の私が記し残しておきたいことではない。

 

「ほんものの自分」とは何なのであろうか。サルトルは、「地獄とは他人のことだ」といった。そして、不可知で無遠慮な他者によって自分が決定されることに絶望しながら、そうではない「ほんものの自分」を表わそうとし、『嘔吐』しそうなロカンタンの日記を記すことによってそれをやり遂げた、とサルトルは自己評価した。そして劣位の自分を物語ることこそ「ほんものの自分」を表わすことなのだとした。そういう逆説的な意識が、ある時代の「芸術」の根底に存在することはトリリングが指摘する通りである。確かに我々は、追い詰められると退廃的になり自傷的、自虐的になる。短絡的な欲望に身をやつそうとする。たいていその欲望を受け入れている自分と、他者が作り上げる「自分」の分裂にどうしようもなくなるものであり、それを解消できないこともしばしばである。(これは『こゝろ』の「先生」がそう振る舞い、いわゆる「大学生」なる一群が高い頻度でそう振る舞い、「自分」なるものを見失って彷徨していることからもわかる)

 

けれど、「自分らしさ」、「ほんものの自分」を探すという自傷的な、困難な行為を我々はやめられない。そして、それを膨大な他者との関係において見いだそうとする不毛で不可能な行いを、我々はやめられない。不可能であるのは、そんなに「卓越した」人などこの世にはそう多くない(あるいは見方によってはゼロである)一方で、それをやめられないのは、他者をどのように捉えたとしても、「私」と私が意識する私は、私ただ一人だからである。

 

おおきな不安とわずかばかりの期待、それが今の「我々」を包んでいるとすれば、この苦しみの一端を残しておくこともあとから見たときのために肝要である。それが苦しいことであると書いてみて始めて、苦しみが外から見えるようになる。幾ばくかの安住は、それが何であったかという位相において、ようやく現われる。必ず希望的観測によって文章を締めなければならない、というアンチ=ニヒリズム的要請が今の私の「言葉」を統制していることも、ついでに記しておこう。

 

 

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