ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育と「子ども」

表題の内容について、アーレントの言を引用して始めるのは、教育学のお作法どおりとは言えない。確かに「アーレントの教育論」なるものがあるとすれば、それがいかに問題多きものであるかは周知の通りである。しかし、私はあえてそこから始めようと思う。彼女は政治哲学者ゆえに、教育畑からは出てこない言葉で教育論を語ろうとしてくれる。

 

つねにわれわれの希望は各世代がもたらす新しいものに懸かっている。……旧いものであるわれわれが新しいものを意のままにしようとし、その在り方を命じようとするならば、われわれはすべてを破壊することになろう。……教育はこの新しさを守り、それを1つの新しいものとして旧い世界に導き入れねばならない。旧い世界は、その活動がいかに革命的であろうと、来たるべき世代の立場からすればつねに老朽化し、破滅に瀕しているのだから。

ハンナ・アーレント,「教育の危機」-『過去と未来の間』 より

 

「子ども」は、「教育」を巡る最も重要な思考対象である。教育という営みは大部分、「子ども」をどう捉え、いかに処遇し、どのような存在としていくかという問と密接に結びついている。しかし、重要であるわりに我々は子どもについての多くのことを見過ごしている。

 

教育学で、「子ども」といえばルソーとアリエスを取り上げるのは様式美とさえ呼べる展開である。ルソーが「子どもの発見者」であるとすれば、アリエスは「子どもの再=発見者」であるというわけである。この展開については疑問が残るが、確かに、「子ども」は近代の発明品である、というのは大いに理解できる言説ではある。(※1)すなわち、「大人」との対象において「子ども」がある特別な時期として区別され、大人とは違った形で処遇されねばならないという価値観が生まれたのは、近代以降の特有な思考である。(※2)

 

19世紀からこの方、完全に成功したとは言えないが世界中で、子ども期を大人期と区別し、彼らから「労働」を取り上げ、家庭から一定程度引き剥がし(家庭の方が衰退したという言い方のほうが恐らく正しい)、「学校」という箱に押し込もうとする運動が積極的になされ一定の成果をあげてきた。こうした運動と連動する形で、子どもの心理学-「教育心理学」が台頭した。子どもの成長に段階を付け、彼らがいかに「大人」になるかを「科学的」に考えようとしてきた。「教育人間学」と「教育の科学」は学校を巡って1つになり、子ども期の学校化を推し進めてきた。

 

しかし、近代以降一貫して、人々が「子ども」を「大人」から完全に切り離して考えようとし、子どもを「子ども扱い」することに注力してきたわけではない。積極的な意味では、「子どもの権利」を見いだそうとする運動があり、消極的には「脱学校化」の運動が存在した。子どもと大人、子どもと社会、子どもと政治は常に教育論を中心として論争の的であり、そのあり様を物語ることは容易ではない。

 

 

さて、「子ども」とはなんであろうか。「子ども扱い」とはどんな扱いであろうか。それは一体どんないいことがあって、あるいは悪いことがあるのだろうか。一方、子どもの対極に位置づけられる「大人」とはなんであろうか。

 

恐らく、「大人」について考えるほうが議論が見やすくなるから大人について先に考えてみる。大人とは政治的に言えば、諸権利を有し、それを保持するがゆえに諸々の義務・責任を履行する/しうる存在である。義務・責任を履行するためには様々な能力が必要になる。例えば経済的自立とそれを支える諸々のスキル、帰属などがそれである。狭義の「大人」の条件は時代によって表層的には変遷してきたといえる。中世において、「大人」とは血縁によって決定されていた。近代に入っても長く、その条件として「男性」や「白人」、「財産所有」などが加えられていた。こうした一つ一つの条件を克服する物語が近代の物語の1つである。

 

先ほど「狭義の」大人という表現を用いたが、これは政治的な、という制限がついた「大人」論であることを示している。政治的に権利を持たない「大人」=「成人」=「人間」は古代から現代に至るまで存在している。成人するとは、有り体に言えば自ら「家」を立て、所帯を持ち、子弟を養う存在である。これがより独立したものであれば、その人はまさに狭義の「大人」であっただろうが、従属的な存在であっても広義の「大人」ではあるように思う。

 

「子ども」は大人の対照である、とすれば、子どもは非=大人である。非=大人であるとは、上述の文脈で言えば、政治的権利を有さず、独立していない(すなわち保護を必要とする)存在である。では、なぜ「子ども」は大人と区別されなくてはいけないのか。それは、端的に言えば、「子ども」があまりにも未熟であって、大人たるに必要な「能力」を有していないからであろう。だから「教育」が必要であり、教育による「社会化」が必要なのである。子どもは大人に作り変えられ、大人の社会を維持する存在-大人の似姿-に作り変えられなければならない。しかし、子どもの分離とはそれだけの理由によるのだろうか。

 

 

ようやくアーレントに戻ろう。アーレントによれば、子どもとは、「始まり」「新しいもの」「我々の世界存続の希望」である。旧い大人とは全く違う存在である。アーレントの「世界」とは、人がかけがえのない「一人の人」として現われる場、そうしたかけがえのない人の間(in-between)にあって、それらの人が共通に、違った視角から眺めようとする場である。こうした世界は、新しいもの-すなわち新しい視点がなければたちどころに崩壊する。旧い大人たちはだんだんと隣の人との「共通性」を発見し、同じ場所から物事を見つめていこうとする。そして、「何者」でもなくなって、すなわち社会的な存在として死んでいく。このことはエドワード・ヤングが端的に問うている。

 

他にかけがえのないもの(originals)として生まれながら、どうして他のものの写し(copies)として死ぬなどということが起こるのだろうか?

 エドワード・ヤン

 

子ども期というのは不思議な時代である。多くの場合において、子どもは家庭において、うまくいけば学校においても、ユニークな、かけがえのない存在として遇される。(この時期が喪失することによる病理-自己肯定感の著しい欠如-は教育心理学が詳らかに明かすところである。)やがて大人になる時、大人になろうとする時、我々は「社会人」として、全体の中の1つの部品として組み込まれていく。世界が広がるに連れて、子どもが持っている全能感の多くは否定され、自分の「上位互換」が世界にはたくさんいて、自分は「何者」でもなくて、すなわちユニークな存在ではなくて、たくさんいる人間の中のわずか一人に過ぎないのだ、ということを思い知る。社会において、別にそれをやるのは自分でなくて他の誰かでもよいのだ。ただ、「たまたま」それを行う役割を自分が得て、すなわち社会の中でのアイデンティティをそこにもっているがために、それを実施しているに過ぎない。このアイデンティティにやがて思考は、視点は固着し、他者をそういう視点でしか見られないようになる。ここに偏見の固着、「世界」の構造化=崩壊が起こるのである。(無論、固着する過程で、いくらか我々は「世界」を変えている。)

 

しかし、子ども期を作りだす、というのは、こうした悲惨な社会(とあえて表現しよう)から子どもを引き剥がし、相対的に、外から社会を見つめる機会を作る効果が期待できるのである。子どもは大人を観察する。大人になろうとする一方で、彼らが行っていることのおかしさを見つめるのである。それはくだらない偏見かもしれないし、非合理な慣習かも知れないし、大人がまとう「煩わしさ」かもしれない。子どもは子どもなりのやり方で、世界を「新鮮な」ものとして受取る。自分たちの環境の変化を敏感に感じ取ると共に、「旧い人たちが作ったもの」を「もとからあったもの」として認識する。こうして旧い人たちが持ちえない新たな視座を得て、世界を更新していくのである。

 

アーレントは、まさにこの社会的なるものの批判にその思考軸をおいた思想家であった。確かに、その社会的なるもの批判は多くの点で問題がある。社会的なるもの批判を理想化するあまり、現実の社会的暴力(=構造的暴力)の存在を看過してしまう場面が多い。しかし、彼女の指摘は、社会的なるものに固着し、「子どもの社会化」を当然視する我々を揺るがしてくれるのである。

 

こう考えてくれば、「子ども扱い」とは2つの意味を持つ。1つは未熟な存在として、相応に手加減して接しようとすることであり、もう1つは、「非=大人」、「非=社会人」として、すなわち新しい存在、かけがえのない存在として遇していこうとすることである。前者はなるほど重要である。「発達段階」がすべての人にとって正しいとは言えないが、子ども毎の発達段階を大きく外れたところには、暴力こそあれ学びはない。相応の「配慮」はなるほど必要である。後者は、前者を正しいものとしていくために、そして教育全体を考えるためにより一層重要な視座であるように思われる。

 

私は、子どもの社会化がまったく必要ない、と言うつもりはない。子どもは多くの場合において未熟である。言葉も知らず、やたらと攻撃的で、早とちりで、甘えん坊で、平気で間違ったことをする。ようは自らを表象(表現,再現前化,representation)すること、自らの存在を維持するものとしての「他者」を「正しく」「表象」することができない。子どもは、直ちに我々の「世界」を作るものとはならないし、そのまま「世界」に放り出せば、最も「社会的な」-すなわち従属的な存在となることは間違いない。しかし、子どもを大人の似姿として、もっと端的に言えば「教育者の似姿」として、強引に、強制的に押し込めようとする態度には断固として反対する。アーレントは詩的に言葉を選んで、次のように述べている。

 

人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば「自然に」消滅する。それを救う奇蹟というのは、……新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。……福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現で語られたのは、世界にたいするこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「わたしたちのもとに子どもが生まれた。」

ハンナ・アーレント,『人間の条件』

 

※1:大変不勉強なのでいろいろ後回しにしてまだアリエスを読んでいないから何とも言えないが、ルソーについて「子どもの発見者」「消極教育論」の二言で片付けようとしている教育学者、特にその後にペスタロッチを接続せずにルソー単体でそう片付けようとしている教育学者を見付けたら『エミール』についてまともに勉強したことがないまま知ったかぶりして喋っていると嘲笑っていただいて構わない。ペスタロッチ的読み、という意味では確かにその二言でいいが、ペスタロッチは『エミール』について多くの読み過ごしをしている。例えば「消極」というのは大嘘もいいところである。『エミール』におけるエミール少年の教育は全てにおいて「積極的」で徹底的な管理がなされた環境で進められている。

 

※2:一方で日本の「元服」に特徴的なように「成人」の儀式をもって元服以前と以降を仕分けしようとする様式は近世にも、あるいはそれより以前にも存在していた。しかし、すべての人が「子ども」を「子ども」という特別な存在として厳然と分離して遇しようとし始めたのは近代以降であろうように思う。