ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

アラーキーについて

アラーキー」が炎上している。彼のモデルを長きにわたって務めてきた女性の"me too"が発端である。

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このことを書く前に、立場を表明しておこう。私はアラーキーの作品が好きである。彼の作品を好んでみている。彼の才能を尊敬しているし、真似できない唯一無二のものであると感じている。今回書きたかったことはそんな、彼の作品の「ファン」からみた、彼についてのことである。この記事は、自己批判的な「私性」に関する話になると思うが、そのことを全てにおいて否定しているわけではない。そして、私はこの件でアラーキーその人の行為を擁護する気はまったくないし、me tooの文章に書かれた文句にケチをつける気はまったくない(というか、美しささえ感じる名文であるように思う)

 

 

彼の作品には、私が見る限り一種独特の魅力がある。彼は彼自身の呼吸と呼応するようにヌードを使い、彼自身の意のままに「私」を作り、我々に見せてくれる。その構成の妙は、まさに天才のそれである。そして、その「私」はありがちな説教臭さをまとってはいない。このことは、おそらく彼の作品における重要な特徴である。

 

私が見る限り、彼の作品は、その赤裸々な私性の前に鑑賞者自身の仮面の裏側=私=を照らし出し、それに対してある種の「承認」を与えている。彼は、私的なるもの、その暗がりを肯定的に表象し、むしろそれを全面に押し出す。公的なる表の「貌」=仮面=と、暗がりにある汚らしいもの、暴力的なものを含む「私」が全部が一揃えになって「人」なのである。そのリアリティのようなものを、彼は私に見せつけ、それを承認してくれる。この、「リアリティある生気」こそが彼の作品の真骨頂である。

 

確かに、彼の作品は古い意味で男性的、抑圧的で、エゴイスティック、サディスティックである。それは彼の作品が、彼自身のどうしようもない暗がりにおいて作られるものであるからであろうように思う。彼において、「陽子」以降のヌードには、彼自身の表象したい「私性」のための道具的価値以外の何ものもないように思われる。そこに写されている人は、彼にとって「モノ」でしかなくて、今回me tooに晒されたような批判、それ自体は間違いなく彼にとって当てはまることであろう。他者を「モノ」化して自らの芸術に参与させることそれ自体は、表現手法としておそらく否定されるべきではない。(これについては異論があるだろうが、ある程度対象を「モノ」化しなければ、芸術作品という「モノ」は作れないと私は考える。)しかし、「芸術」という箱庭を超えた現実の扱いそれ自体まで「モノ」化していたのはなるほど全くいただけない話である。

 

私は彼の作品のファンであると公言するとはいっても、彼の作品を見て「楽しむ」こと、それ自体が、彼自身が彼の暗がりにおいて持つ攻撃性に共感すること、あるいは「赤裸々な私性」という見世物を攻撃されない高みから眺める下卑た愉悦にも似た感情であるように思いなすこともしばしばある。あるいは、彼の作品を「楽しむ」時、彼と私は共犯関係であり、私は、まさに私の暗がりにある感情と彼のそれとの共依存的な交感を楽しんでいるようにさえ感じる時もままある。しかし、こうした否定的な感情を乗り越えるだけの魅力が彼の作品にはあるのだ。

 

 

私は弱い人間であるから、しばしば説教臭く(あるいは啓蒙臭く)、暗がり=私性=を「告発」する言説にうんざりしてしまうことがある。たしかに私の内面はある種の暴力性に溢れているし、それはおそらく誰しもそうなのである。そして、表に現れてしまった暴力性を拾い上げて、それを告発し、断罪しようとする営みは極めて理解できるものである。なぜなら、その営みはまずもって自己の生存に対する防衛手段であって、より「自由に」(場合によっては「人らしく」)生きるための条件となるからである。けれど、そうした視点を敷衍して、人間の私的なる部分(ある種の動物的なる部分)を否定することが「人間らしさ」であるかのような視点には、時としてうんざりする。その点、アラーキーのそれは違う。少なくとも、「生」に対するある種の肯定的な感情が存在するように思う。

 

もちろん、彼の作品を、批判的、啓蒙的視点から読み解くことは可能である。彼の作品から、彼自身の抑圧性を感じ取ることは容易であるし、結局は公に表象されているそれが、暴力的存在だと断罪することは容易である。彼の作品は、暴力に対するある種の肯定であって、啓蒙的な文脈で「評価」されることはないかも知れない。けれど一つだけ言いたい。果たして、芸術作品は啓蒙的文脈でのみ評価されるような、そんなつまらないものなのだろうか。説教臭い「美」とやらを発見し、それを人々に「啓蒙」する、ただそれだけの役割をもつものなのだろうか。私はそうは思わない。

 

私は今回の me tooに対して、「なんてことを書いてくれたんだコノヤロー!」などという、見当違いな否定をする気はない。アラーキーに非常に大きな非がある事象であるし、「芸術活動」と「現実生活」を履き違えた彼と彼の取り巻きにはほとほと呆れるしかない。しかし、この件で、彼の芸術的活動の「価値」全てが剥ぎ取られ、鬼の首を取ったように「アラーキーは終わった!」などという文脈錯誤のくだらない勝利宣言に付き合う気もしない。私は今回の件があってもアラーキーの「作品」のファンであるし、そのことを改める気はない。