ある教育学徒の雑記

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教育学入門

教育学、という学問がある。そして、私はブログのタイトル通り「教育学」を学んでいる。教育学とはなるほど、以前このブログで書いた通り欺瞞の多い学問である。けれど多くの可能性もまた感じる学問である。自分の思考を整理するためにも、少し教育学の入門記事を書いておこうと思う。だいぶ前に書いたことの再論であるが、少し筆致がましになっている。

 

① 教育学の扱う範囲

「教育学」と言うくらいだから、教育学は広く「教育」という営みについて扱う学問である。「教育とはなにか」「教育はなぜ必要か」「教育は何が可能か」といった問いから転じて、「教育とはいかにあるべきか/いかにすべきか」といった規範的言説へと向かう。こうした問に向かっていこうとする方法は様々である。方法によって「教育哲学」と呼ばれたり「教育社会学」と呼ばれたり「教育心理学」と呼ばれたり、「教育方法学」と呼ばれたり、それ以外にもいろいろな方法が採用されている。別にこれらの教育学の内部領域の、相互の関係について理解を深める事は入門の上では必要なことではない。教育学は、「教育」について考察する総合的な学問である、とわかっていただければそれでいい。

 

② 「教育」とはなにか

教育学において扱われる「教育」とは、「学校教育」に限定されるものではもちろんない。義務・無償の「学校」という近代に特有な制度(発明品)において行われる「教育」は、教育学が扱おうとする教育のうちの多くを占めるが全てではない。

 

「教育」とは時間的にも空間的にも普遍的(遍在的)な営みである。我々は学校で「先生」に教えられること以外にも、どこにあっても教育される。友人との会話においても、八百屋の親父との会話でも、インターネットで適当にブラウジングしていても、教育される。「教育しようとする」ことは意図的な営みであるが、他者を、結果的に「教育する」ことは無意図的な営みを含む。こういう頭で、教育を眺めてみること、これが教育学の第一歩である。

 

③ 教育学のはじまり:教育体験の相対化

人はみな教育されてここまで生きながらえてきた。「教育」を躾や訓練と区別して、何か特権的な定義を付与しようとする向きはあるけれど、ここでの教育はそういう深い意味は持たない。ただ、他者の影響によって何らかの変化をし続けてきた、そして、それによって生きながらえてきた、という程度の意味である。(このことは後述する)

 

我々は全て、教育体験を有している。それを少し角度を変えて眺めてみることから教育学を始めてみよう。例えば学校について。「学校にはなぜ行かなきゃいけないんだろう」「学校は何であるんだろう」「学校で教えられていることはなんだろう」とか。こうした問に、明確な答えがあるわけではない。正確に言えば、「答え」を設定することはできるが、それが唯一絶対のものではない。こうした問を、いろいろ視点を変えて見てみよう。例えば「学校の役割」について、個人的視点と社会的視点双方から眺めてみて、自分の受けてきた教育体験を相対化してみると、いろいろと面白いことがわかってくる。

 

私個人が「教育学」の学び始めにおいて最も大きな衝撃を受けたのは、教育社会学の再生産論によってであった。教育社会学は、私がそれまでなんとなく直感していたことをまざまざと見せつけてくれたのである。

 

 

例えば、学校教育の機能として「選抜」に着目してみる。なるほど私は明確にいくつかの選抜を受けてきた。中学受験・大学受験を経て、一応早稲田大学というところに入学した。けれど、「選抜」は果たして受験や試験においてだけ行われていたのであろうか。言いかえれば、私が評価されるだけの能力を持っていた、まさにそれだけの理由によって選抜されたのだろうか。

 

学校教育の再生産論とは、学校こそが、まさに現代の格差構造を固定化し再生産しているという理論である。高学歴の親の子は比較的高学歴になる。高収入の親の子は比較的高収入になる。こうした作用は、学校における「選抜」によって正当化されている。同じ試験、同じ教育機会を与えられて選抜されたのだから、高い点数を獲得した子どもは高い地位を得て当然である、と思いなされる。けれどその子どもが高い点数を獲得できたのは、その子がただ人一倍高い能力を持っていたから、多くの努力をしたからではなくて、その子の生まれ育った環境や境遇によってではないか、と視点をずらしてみると面白いことが見えてくる。

 

視点のずらし方はいろいろである。社会学者のブルデューによれば、教育によって生まれる差異は、子どもに与えられている文化資本の多寡に影響される。「家にたくさんの本がある」、「親がよく美術館に連れて行ってくれる」といった当の子どもにとっては「当たり前」の出来事が学歴格差を生み出している。

 

再生産論の是非や詳細についてここで立ち入る気はない。私が「教育学」にハマったきっかけの1つは再生産論であったが、それを今も専門にしているわけではない。ただ、視点のずらし方の例として挙げてみたまでである。このように、「当たり前」を問い直し、視点をずらして考え、その背後を探ってみること、これこそが教育学のはじまりであり、あらゆる学問のはじまりである。

 

④ 教育学の第二歩:用語に敏感になる

教育体験の相対化は、ある程度までは極めて楽しく、一方で自分ごと化できる行為である。けれど、相対化の様式そのものを学ばなければ、教育学の入門にはならない。ただ再生産論に固執して、その視点からのみ教育を語るのであれば、それは「学問」ではない。

 

相対化するとは、それから距離をとって眺めてみる、ということである。距離を取る方法はいくつかあるが、用語に敏感になることで距離を取る方法がおそらく最も適切である。上述した「教育」と「躾・訓練」、「自由」と「責任」、「理論」と「実践」、「平等」と「競争(格差)」、「経済」と「文化」、「社会」と「個人」など。用語や二項対立に着目し、それをもとに教育という営みを切り分けてみる。切り分けたものの差異のなかに存在する機能を観察してみる。そして、その切り分けだけでは拾いきれていない出来事はないか、詳しく見てみる。これを繰り返すことが「相対化」の営みである。(こうした営みをクリティカル・シンキングとも言う)

 

⑤ 最後に:教育学の目指すところ

教育学を学び始めるとき、いろいろな視点から話が始められる。たくさんの用語が出てくる。例えば、アヴェロンの野生児、ポルトマンの生理的早産説、カントの教育人間学、アリエスの子ども論、イリッチの脱学校論などなどなど。世界史の教科書では出てこない、あれやこれやの人名に戸惑わされるかもしれない。あるいは、日本、フランス、ドイツ、アメリカの学校制度とその違いなんてところも問題になってくる。また、いろいろ覚えなきゃいけないのか…と落胆もひとしおである。

 

確かに、まともに教育学をやるのであれば、相当の内容を頭に詰め込まねばならない。けれど、それは本質的な苦労ではない。思考を多角化するために、いずれ覚え込みも必要であるが、教育学を学ぶことによって目指されるのは、ルソーやデューイはかく語りきとか、フィンランドの教育はここが素晴らしい!とか言えるようになることではない。教育学を学ぶことによって目指されるのは、教育という営みを多角的に見つめられるようになること、その分析から何らかの規範言説を持ってみることである。

 

規範言説ー「○○であるべき」という言説ーはたちどころに多面的な批判にさらされる。しかし、批判する/されることこそ創造の第一歩である。こうした批判をできるようになることも、教育学に限らず、学問的営みの大きな目的である。

 

とりあえず、自分の教育をもう一度見つめ直してみよう。自分が何をしていて、何を考えているのか、少し思考してみよう。それがほんとうの意味でのはじめの一歩であり、学問の階段を登っていく普遍的な手段である。