ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「桜」について

桜の花が咲いて、散った。また春が来た。最近の陽気は「春」を一足飛びに飛び越えてしまったようだけれど、「出会いと別れの季節」は変わらず今年もやってきた。

 

「桜」というのは象徴的な花である。あれを見ると感傷的になるように、我々は形作られてきたらしい。青空に映える桜のもとに老若男女が集い、各々の思いを散りゆく花に込める。桜は散るから美しい。小さい花びらが空を、川をしばし埋め、幻想的な眺めを作る。場面の転換を我々に示すように。

 

桜はしばしば「希望」に満ちた春を表象する。一方、その散る様に「寂しさ」が重ねられる。希望の花が先で、散る寂しさが後である。しかし、3月から4月の、我々に起きる変化を見ると、順序が逆であるように見える。別れが3月、出会いが4月。多分、これは「見える」だけなのだ。

 

出会いの後に別れが来る。別れの後に出会いが来る。別れの瞬間の得も言われぬ感情はある種の美しさを伴う。それは花の希望によって脚色される。またもう一週回ったのだ、という儚さが我々を包む。「出会い」の時期から少しして花が散る。やってくるのは「寂しさ」である。出会いの後、恐らく本当の寂しさが我々にやってくる。寂しさの中に若葉が芽生える。また一周の始まりである。若葉もやがて育ち、散り、蕾をつけ、花になる。

 

こぼれんばかりの桜の前に立つ。毎年それが咲くと、見に行きたくなる。そして思い出す。散りゆく希望を、散るにもかかわらず今年も咲いたそれを。ともかく、また一周回ったのだ。そう言い聞かせるまもなく、桜はいってしまった。今年もまた、勝手に春を過ぎていく。

 

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