ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

真実にはどれくらい価値があるか~森友問題に関する戯言

表題の問題について何らかのことを書くこと、それは問題のデリケートさからいって少々ためらわれるところがある。であるから最初に注記しておこう。私は特定の政党の支持者ではないし、誰かを特別に論って批判しようと思ってこの記事を書いているわけではない。もちろん「文書の書き換え」なんてつまらないことをやった財務省、そうした「配慮」を明らかに強要したようにみえる政権側と、それをひた隠しにしてきた答弁の非一貫性については誹りを免れるものではない。けれど、彼らを特別に「糾弾」したいわけではない。ただの雑感を記すのみである。

 

森友にしろ加計にしろ、何らかの「配慮」があったこと、これは恐らく間違いないだろう。先日早稲田ではない某大学の某教授と立ち話をしていた時に、ある程度信頼できる傍証を聞いて以来だいたいそういうことはあったのだろうと確信している。(もちろんこのことがすなわち「真実」ではない。この情報に「真実」としての価値はないし、反証可能性もない。ただ個人的信条形成に影響があったエピソードであるというだけである。)ただ、その場で、この件が誰の眼にも明らかな形で立証されることはないだろう、あるいはそんなヘマは踏まないだろう、と同意したことも覚えている。それがこのような形で表に出ようとは、私の想像を悪い意味で超えてきた。この件を捕まえて「事実は小説より奇なり」と称する人を目にしたが、小説であるならもっと巧妙なトリックが仕組まれ、正しい意味で私の想像を超えてくるはずだから「事実は小説よりしょうもない」とでも言うのが適切であろう。

 

 

何にしろ、別にこの件がどうだという気はあまりない。話題にしたいことは表題のことである。すなわち、「真実にはどれくらい価値があるか」についてである。

 

この件について、私でさえそれなりに信頼してもいいと思える傍証を耳にできるくらいだから、政権攻撃をする野党にも、これを報じるメディアにもこの疑惑に対して相当の確信があったことは容易に想像できる。確かにこの疑惑は民主主義の根幹、三権分立の根幹を揺るがし、行政の基本(文書主義)を揺るがすものである。であるから、与党の政権担当能力を追求しより正しい政治を求めていく野党の活動として、この問題を糾弾することは大いに価値があることであった。これは理解できる。別に野党がこの件を深追いしたことを「コストをかけすぎだ」と短絡的に切り捨てる気はない。そもそも、コストをかけさせた原因は、疑惑そのものであって、そのようなことをそもそも講じよう、あるいは(見方によれば)リークさせてしまう政権そのものにもあることは明々白々である。

 

けれどーとこの文脈で言うことは幾分躊躇われるけれどー、一体このことによって何がどれだけ正されるか、政治にとってそれが大きな意味で「良い」ことであるかは未知数である。この後この問題がどういう展開をたどるかズブの素人である私には正しい予想を述べることはできない。政権支持率に重大な影響があることは予想できる。場合によっては閣僚交代などが起こるかもしれない。けれど、それ以上にはならないように私には思える。(事実は小説よりもしょうもないのだから、事実が私の芳しくない想像力の下を滑っていってしまうことはもしかしたらあるかもしれないが)勿論、何らかのマイナスにある状態で、その値が0に近づくことは移動の方向として「正しく」あるいは「良く」なったことであると評価しうる。しかし、見ようによっては氷山のほんの一角の、わずかなマイナスがゼロに近づいただけのように見えるのである。では、一体その移動にはどれくらいの価値があるのだろうか。この真実を明らかにすることにかけられたコストにそれは見合うものだろうか。

 

私がそれを「見合う」か「見合わない」と思っているかはここでは表明しない。というか未熟な私にはこの問題に関する明確な意見がない。両者の意見も相応に理解できる、という程度である。「真実」には代えがたい価値があり、コストに関する議論は無価値である、とする意見は極めてよく理解できる。あるいは、この問題は極めて重大であるから、コストに当然見合っている、というのも理解できる。そもそも「確からしいもの」を追求しようとして日々図書館の隅でウンウン言っている学問者の端くれの端くれである私には、このことが極めて重要であることを理解しない訳にはいかない。けれど一方の意見もある程度理解できるのである。この「真実」のためにかかった膨大なコストーそれは間違いなく森友問題で国庫が「損」した額より遥かに大きいーに思いを致せば、「木を見て森を見ず」のような観が得られるとしても理解できるのである。あらゆる「真実」(確からしいもの)に代えがたい価値があったとしても、それを明らかにするために無限にコストが掛けられるというわけではないのだから、ある程度のコスト議論が必要である、という話はこれもまた理解できる。

 

ようは、この「コスト」を主権者である我々は承認できるのだろうか、という問題である。確かに真実の真贋正否、及び価値に関する裁定は主権者全体に対して本来求められる問題ではない。しかし、それを明らかにするためにかかったコストに関して、判断する権利を我々は有している。であれば、我々はどれくらいそれを受け入れられるのだろうか。あるいはどういった「真実」に対して、どれだけのコストを承認するのだろうか。これが直観的にせよ確からしく分かったのなら素晴らしく有能な政治屋(政治家ではない)になれることは間違いないだろうが、あいにく私にはそれを述べるだけの能力も経験もない。

 

さて、強引にまとめよう。果たして真実にはどれくらいの価値があるのか。言い方を変えれば、我々は真実を明らかにするためにどれだけのコストを承認できるのだろうか。単純に、ごくごく単純にいえば、その「コスト」こそがまさに経済的システムにおける「価値」コードそのものであり、それを我々は「判断」する権利を有するということはやはり、我々は真実の価値を裁定できる立場にあると言える。であれば、我々はどのような真実に価値を認めるのだろうか。

 

私が言いたいことは、個人的意見ではない。強いて意見らしいものを述べるとすれば、このことについて考えていきたい、あるいは考えてほしい、というものである。我々はどうあれ、真実を判断し、価値を裁定する権利を持っている。であればそれを「確からしく」するためにはどうすればいいのか。あるいは自分がこうした問題に対してどういう価値観を持つのか。どうやら教育学に親しい問題に置き換えられそうなところまで示したところで記事を終えようと思う。ただひとつ言えることは「真実にはカネがかかる」のである。