ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

芸術とは何か~「正しい技術」と「芸術」の関係

この記事を書く直接のきっかけは、フィギュアスケート羽生結弦があるインタビューに答えて次のように言ったことにある。

「芸術」というのは明らかに正しい技術。徹底された基礎によって裏付けされた表現力-芸術-であって、それが足りないと「芸術」にはならないと僕は思っています。

実際の動画の抜粋は以下。

 

この言は、ある側面において間違いなく正鵠を射た表現である。彼が取り組むフィギュアスケートだけではなく、例として彼自身があげたバレエ、ミュージカルにおいて、芸術はまさに「正しい技術」の延長(積み重ね)である-ということを越えて、正しい技術こそが「芸術性」そのものである、ように私も感ぜられるし恐らくそれはかなりの部分において核心を捉えた表現である。

 

 

「藝術」とは明治時代に、"Liberal Art"の訳語として啓蒙思想西周によって与えられた語である。西の『百学連環』において、Artは単に「術」であり、"Mechanical Art"を「技術」と訳しわけられている。ちなみに、"Fine Art"は単に「巧藝」と訳される。(藝の字が略式的、慣例的に転倒して「芸」の字が用いられるようになった)

 

 

リベラルアーツとカタカナで書くとついつい後ろに「教育」とひっつけて教育論を語りたくなるがここでは自粛しよう。「芸術」と"Art"は日本語の起こりを見ればイコールではない。もちろん昨今それらは同義として用いられがちであることは理解している。「技術」(あるいは単に「術」)は"technique"とか"skill”などの単語と対応しているかのように我々は思いなしている。しかし、これらは同一ではない。分かりやすいサイトがあったので添付しておこう。

 

 

上記のサイトも充分ではない。確かに現今の用法と対照したときには確かに上記の説明で十分である。しかし、artの語源に立ち返れば、artとは第一にskillであり、techniqueであり、artifice(人為)そのものである。自然(nature)から「人間らしいもの」を取り出す行為一般がartであり、あるいはnatureの循環性-生まれ、土に帰り、そしてまた生まれる-にいくらかの時間的継続を差し込む行為がartである。(注:「芸術」の原語がそもそも"liberal art"であるというのは極めて興味深い。「藝」という字がそもそも植物を「植える」-自然に人為を差し込む-行為であることであり、liberal-洞窟の暗がりからの「自由」-と同義であるとは私にはどうしても思えない。OEDにもいわゆる「芸術」的な意味でliberal artが用いられた用例は出ていない。ただし、liberal artという単語自体が、中世以降、私が原義として用いた「洞窟の比喩」から離れて単に貴族のたしなみ-「雅芸」-的意味合いを持っていたことは否定できない。『百学連環』において、なるほどliberal artは「雅芸」とも訳されている。恐らく訳出の際念頭にあったのは「芸能」という単語であろう。「芸術」という訳語の本来的ニュアンスは、「技術」-生活のための術,mechanical art,「器械の術」「商売」-より「上品」であることが意識されていることがわかる。とりあえず、ここでは単に芸術と術(現在で言えば「技術」)が極めて親和的であることを確認できればそれでよい

 

今読み進めているので少々アーレント的な説明になってしまったが、ともかくartとは確かに技術、それもskillやらtechniqueと同義であった。Oxford English Dictionaryによれば、artという単語が美(beauty)と結びついて用いられるようになったのは1668年の表現以降である。ここで終始語源的な話がしたいのではない。語源を鑑みても、「芸術とは正しい技術である」という言はかなりの部分説得力があるといいたいのである。

 

 

芸術活動にもいろいろある。いわゆるfine artと言われる特権的な「美術」-狭義には絵画、版画、彫刻-に留まらず、写真、文学、建築、工芸、演劇、舞踊、映画、音楽など様々挙げられる。それをどう分類するかですでに芸術論の基礎は始まる。芸術論とは第一に美意識に関する議論である。それぞれの活動にはそれぞれの価値規範-「何を美しいとするか」-があり、それは相応に、我々「本来」(human nature)の「美意識」と、文化的に作られる価値観に裏打ちされ、時に変化させられる。ともかく、多くの場合、芸術は美と結びついた活動である。

 

 

しかし、我々が「芸術」に触れようとする時に「美しい」と我々が普段名付ける感覚以外の何かに出会うことは多い。どちらかといえば、我々にとって芸術は「美しい」だけではなく、最も広くとって「我々の感情を揺さぶる物、活動」である。(このようなフランクな単語としてそもそも「芸術」という概念はあるはずである)我々は本を読み、写真を見、音楽を聞き、映画を見て憤慨し、涕涙し、破顔する。効果的に感情に訴求しそれを管理する技術(方法)-(「写真」であれば構図、「音楽」であればコード、「文学」であれば文体など)-は各芸術活動ごとに洗練され、それらの活動に向かう人は、そうした技術論を学び、あるいは体得しながら、独創的な「技術」を打ち立てようとする。あるいは規定された技術の範疇で何がしかを「表現」しようとする。

 

再度言う。芸術活動にも幾つか種類がある。私は全ての芸術活動に通じているわけではもちろんないから、間違いもあるかもしれない。しかし、ある分類の観点として次のような観点を挿入してみたい。すなわち、どれだけ活動が統制的(規範的)であるか、という観点である。

 

全ての芸術活動が表現できるものは多種多様である。しかし上述したとおり、すべての活動には固有の「規範」がある。また、活動は全て技法の使い方(natureという「質料」の使い方)であるから、その技法がもつ固有の束縛がある。わかりやすく言えば、表現できるものに「限界」がある。この違いによって冒頭の羽生結弦の言葉から受取るイメージが変わってくる。「芸術とは明らかに正しい技術」といった時、芸術=正しい技術か、芸術∋正しい技術か、あるいは芸術⊃正しい技術かは大きく異る。ある規範(ルール)が支配的であればあるほど、両者は等号に近づく。フィギュアスケートという「スポーツ」は-そもそもスポーツとはあるルール=規範のもとに行われるものであるから-完全に規範的、統制的であるがゆえに、両者は等号に限りなく近づく。彼が挙げるバレエやミュージカルは「伝統」という規範を背負い、統制的な側面が多いからこそ、両者が等号に近づく。逆に、規範や束縛に対して比較的「自由」な活動、例えば音楽-の中でもロックンロールなど-や、演劇、写真、「デジタルアート」などは正しい技術を基底に据えながらそれに様々な内容物を付加しようとする。

 

芸術活動それ自体が「自由」であるかどうかは、芸術活動の「優劣」(このような傲慢な表現が許されるとは思えないが)において重要なこととは思えない。というのも、これは「ほんとうの」真善美の価値を求める-洞窟から出る-ためには束縛、強制、苦痛が必要であることに関連している。我々は、ただ漫然と束縛なく目の前を眺めているのでは、ほんとうの意味で「自由」にはなれない。無意識のうちに社会に、環境に影響され、「見方」は統制され価値付けられる。「本当の在り方」-イデア-は形而上の概念であるかもしれないが、それを希求しようと思えば、そうした漫然とした環境を剥ぎ取るための、別の束縛が必要になる。しばしば、極貧の芸術家は目をみはるほど美しいものを生み出し、囚人の文学は我々の目を啓かせる価値をもつ。だから、芸術活動それ自体が「自由」でないことは、逆にあるルールのもとで追求された「美」(あるいはそれ以外の感情)をかきたてるために極めて有効な方法である。

 

 

書き忘れたが、私は少々写真をやる。「写真」という芸術活動は、それはそれで極めて興味深いものがある。ちょっとした写真論については以下を見てほしい。

 

 

 写真は、ある程度「自由」な芸術であると私は考えている。なぜなら、写真という技法が極めて多様なものを表現できるものであり、「伝統」に縛られているわけではないからだ。一億総カメラマン時代において、「写真」という芸術表現の技法は他のどの芸術技法以上に「大衆的」であり、多くの可能性を持っている。逆に可能性を持っているからこそ、正しい技術と芸術性の重なる範囲は小さくなる。

 

もちろん、「技術」「規範」は写真にも存在する。絵画譲りの構図論があり、機械としての写真機を使う技術がある。それ以外にも、色合いや明るさの階調、ピント位置、絞り、露光時間、ライティングなど様々な要素があり、それを使い分ける必要がある。また、上記の技術をもとにした「写真」の解釈にも一定の規範意識がある。夕焼けは物悲しいし、ネイチャーフォトは美しいし、学校写真は楽しい、あるいは懐かしい。

 

けれど、こうした技術や規範意識は決まりきったものではない。そのようにすると「人と同じようなものが撮れますよ」という程度のものだ。写真において「正しい技術」は措定しにくい。緩やかな決まりごとはあっても、別にそれに従う必要はない。目の前のものをどう撮ろうが「正解」はないのだ。

 

もちろん、プロの写真作家を見ていると、みな「巧い」。巧いというのは、もちろんその表現の方法が巧いと言うだけにとどまらず、純粋に「技術」のレベルが極めて高い。「正しい」技術はないけれど、「ハイレベルな」技術は写真にも存在する。「巧い」と思うことを「正しい」とおけば、たしかに写真においても芸術と「正しい技術」は大きく重なっていくだろう。

 

少し議論がまとまりを欠いてきたのでそろそろ締めるとしよう。芸術と技術は極めて深い関係にある。しかし、個々の芸術活動毎にそれらがどのように重なっているかは差異がある。差異があるからこそ「面白い」のであり、「価値」があるように思うのだ。