ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育の目的は何か

「教育の目的は何か」-極めて難しい問いである。歴史上の偉人たちはこれに対して三者三様の「答え」を設定し、(当時から見れば)極めて革新的な教育論を展開してきた。けれど、どうにも勉強していると、歴史上の偉人たちの「答え」には相応に限界があるように見えてくる。なぜか。1つは私が彼らの築いた土台の上に立って、すなわち彼らを「歴史」化して観察できる「現在」に生きているからであり、もう1つは、この問が極めて難解で複雑な要素を含んでいるからである。

 

教育の目的について論じる時に、避けては通れない一節がカントの『教育学』の中にある。曰く「人間は教育されなければならぬ唯一の被造物である」と。曰く「人間は教育によってはじめて人間となることができる。人間とは教育が彼から造り出すところのものに他ならない。」と。つまり、カントにとって教育の目的は「人間」の形成である。

 

たちどころに疑問が浮かんでくる-この場合の「人間」とは何か。なぜ人間は教育されなければならないのか。-最もな疑問である。けれど、ここでカントの人間学をおさらいするつもりはない。なぜなら、偉人の思想を追うことがこの記事の目的ではないからである。気になる人は是非モノの本を読んでほしい。ただ、1つ議論の前に指摘しておかなくてはならないことがある。この場合の「人間」は決して生物学的な「ホモ・サピエンス」としての「ヒト」を指しているのではない、ということを。すなわち、教育の目的を「人間形成」(日本の教育基本法的に言えば「人格の完成」)においたとすると、「人間」に関する問題を深く考え、生物学的な「ヒト」の定義とは別の「人間」を定義しなければ、その目的議論は果たされたとは言えない、ということを。いかに教育の目的論が困難であるか、このことからもよく理解できる。

 

 

この記事のめざすところは、ブログの趣旨に合わせた、ある教育学徒の備忘録-妄想-として「教育の目的論」を記述することである。随分前に自分は以下のような記事を書いた。

 

 

今見るとずいぶん勉強不足であるから、その補遺を記したいと思ってこの記事を書いている次第である。あとで読み返して自分がどれだけ「わかっていなかったのか」、あるいは「わかっていたのか」を理解するためにこのブログはある。であれば、今の時点の考えを記しておくのも悪いことでは無いだろう。

 

・「教育」とは何か

目的を考えるということは、その営みが本来的(自然的)にどのような営み「である」かを考えることと似ている。似ているというのは、目的からこそ営みの様態が考えられるべきであり、逆は本来偽であるからである。(ヒュームの法則)しかし、「である」ことをきちんと観察することは「べき」であることを考察することに対する重要なステップであることに変わりはない。そして、「べき」という価値がアクチュアリティをもつためにもぜひとも考えなければならない問である。

 

「教育」とは何か。プラグマティズムにかぎらず一般的に言われることだが「教育」という名詞は定義不能である。常に「教育する」とか「教育される」とかの形に変えて定義は考えられる。であれば問を正そう。「教育する」とは何か。

 

教育することについて、私は最も汎用的な定義を建てたいと思う。なぜなら、それが「教育の目的を考える」という本記事の議論において最も都合がいいからである。私にとって「教育する」とは、「教育者が被教育者を「望ましい」方向へと移動させようとする営み」である。教育には、2つの存在、「教育する者」と「教育される者」が存在する。教育される者、すなわちある「望ましさ」を持っていない者に、他者がそれを与えよう(あるいは被教育者の中にそれを形成させよう)とする営みこそが「教育する」という営みである。

 

この定義の強みは、それが極めて汎用的なことにある。多くの場合、「教育する」ことの定義は、教育が実現しようとする「望ましさ」の具体的内容に至るまで踏み込もうとする。例えば、「人間になること」、というように。しかし、そこまで踏み込んでしまうと、「望ましさ」に関する問、あるいは議論が一足飛びに流されてしまう。すなわち定義の適用可能性-汎用性-が減少する。それが減少することは、分析のための定義としてふさわしいものではない。

 

あるいは、「教育する」ことの定義として「実現が可能である」ことを前提にした定義も散見される。まるで被教育者は、誰か他者が思ったまさにその通りに作り変えられる-陶冶可能である-かのような前提にたって定義がなされる。しかし、被教育者もまた、「主体」としての自意識を持ち、感情を持ち、どのように抑圧されようが自らに関することを判断する存在である以上、そのような思い込みはナンセンスと言わざるをえない。であるから、あえて教育者の立場から移動「させようとする」という定義を採用した。(簡単に言えば、被教育者が「教えられたこと」をどのような形で自己の内面に受け入れるかは、全くの自由に委ねられているということである。)

 

・教育の目的に関する議論-目的を決定するのは個人か社会か

教育の目的論はつまり、「教育する」ことの定義における「望ましさ」に関する議論である。これに関する議論を二分的にみると、「望ましさ」の決定主体を個人に当てた議論と社会に当てた議論にわけられる。但し完全な二元論に分類出来るわけではない。あくまでどちらの要求をより重視するか、という程度の分類である。

 

個人に立脚した議論は、多くの場合教育の目的を「人間形成」に置く議論と一致する。本質的にリベラルな人間の「自然」性を「正しい」形で実現することこそが教育の目的である。なぜなら、種々の理由から実現のためには「教育」が必要不可欠であるからである。(理由については、ルソーの『エミール』を軽く読んでほしい。あれは教育の不可能性をよく示した書であるが、なぜ教育が必要かもまたよく示した書である)そうして形成された個人が、既存の社会に対して有用であるかは問われない。なぜならその社会は、多くの場合矛盾を抱えた不完全な存在であるからである。むしろ、リベラルな人間の形成を目的とする教育論によって育成される個人に求められるのは、そうした不完全な社会を完全なものへと「進歩」させる「主体」としての役割である。

 

社会に立脚した議論は、公教育の目的論を語る際によく考慮される。公教育はその起こりを考えれば、極めて社会的な理由によって整備されたと言える。1つめには、人びとを土地や血縁など「前近代的」なしがらみから「解放」し、産業社会における有能な労働者として効率的に仕立てあげようとしたためであり、2つめには、そうして前近代的紐帯から切り離された個人が、再び社会秩序を維持し、社会を発展させる主体となるように効率的に教育することがもとめられたためであり、最後には、近代メリトクラシー能力主義)社会において、新たに有能な人材を効率的に発見、選抜、育成することが養成されたためである。社会は、それ自体の存続のために新たな世代の存在を要請する。そして新たな世代を、新たな社会の担い手とするためには何より教育が必要である。特に、テクノロジーの発展とアクセス可能な世界が広がり、益々複雑性を増す昨今において、すべての人に効率的に知識・技能・態度を教育する必要は日増しに高まっていると言える。

 

なんとなく上記の議論で、教育の目的論における二元論の重なる範囲が見えたかもしれない。すなわち、理想的な社会においては、個人の側の観点に立って育成された「人間」こそが社会的にも必要とされる「担い手」になるのである。だから教育は社会進歩の手段として、まず議論される。

 

・私にとって教育の目的とは何か

しかし、私には、上記の二元論は物足りない点があるように思われる。そして物足りないからこそ、その止揚もまた理想的に過ぎるように思われる。

 

第一に、「教育の目的」を一意に決定したとして、それは全ての「被教育者」にとって有効な目的となるのだろうか。戦後日本の教育学はしばらく、「個人の教育可能性の全面的発達」をその至上の目的としてきた。しかし、そんなことが果して「可能」なのだろうか。もっと言えばアクチュアリティある目的と言えるのだろうか。

 

第二に、「理想」を実現すること、「完全である」ことは、果して「善い」こと、すなわち「望ましい」ことと同値なのだろうか。ムーアの指摘を採用すれば、その考えこそ「自然主義的誤謬」である。そしてその「善さ」は第一の理由と同様の理由から一意に決定できるものとも思われない。我々はなんとなく気づいている。「完全であること」は有りえず、何かを選択することは何かを切り捨てることだと。

 

ここでドイツの社会学者、ルーマンの言葉を引用したい。

 

教育者は、後で生じることを知ることはできない。だが、彼は何かが生じることを知っている。教育は社会化に取ってかわったりできないし、ましてや、よりよい、目標に適った、合理的な道具として社会化を補うことはできない。教育は、社会化をただ別種の差異経験をとおして変化させることができるだけだ。教育は、それによって、教育がなければ生じたであろうこととは異なるある体系的な効果をもつかもしれない。だが、そのような効果は、教育が到達をもくろむ目標と合致することはほとんどないだろう。

-Lihumann, Niklas, 1987, “Strukturelle Defizite. Bemerkungen zurs systemtheoretischen Analyse des Erziehungswesens,” Oelkers, J. u. a., hrsg. “Padagogik, Erziehungseissenschaft und Systemtheorie.” Weihheim/Wasel; Beltz Verlag.;67f, 訳文は田中智志・山名淳編(2004),『教育人間論のルーマン 人間は〈教育〉できるのか』,勁草書房,179より引用

 

これが、そのまま第三の理由になる。教育の必要から教育の目的を導く方法は全て、教育がかなりの部分において「可能である」という事実に立脚している。教育を変えれば全て変わるかのような「幻想」に取り憑かれている。しかし、実態はそうではない。そして少しでもアクチュアルに考えるのであれば、教育の目的はそもそも定義不能である。

 

以上を持って言えば、私にとって教育の目的を一意に決定することは「不可能」である。

 

・なぜ教育の目的を考えなくてはならないか

教育の目的は、人間学的にも、あるいは社会的要精においても、残念ながらアクチュアルな形で一意には決定できない、という結論が上記から導かれた。しかし、それを持ってこの記事を終えるのはあまりにもつまらない。私は不可能であるにも関わらず、「教育の目的」を常に考え続ける必要があると感じている。なぜか。それを述べてこの記事を終えたい。

 

 第一に教育は、「我々」の存続に関して、最も近接した問題であるからである。ポルトマンの生理的早産説から、あるいはアヴェロンの野生児の逸話からしばしば教育学が語り始められるように、我々が我々「らしく」社会を続けていくためには、教育的営みが何より不可欠である。では、「我々らしさ」とは何か。我々を形作り、支えているものは何か。こうした問について、「私」は何を重視しようとしているのか。教育という営みは結局それを問い直し、次の世代をつくろうとする人間の営みである。AI時代において、「我々らしさ」はますます揺らいでいる。これまで他の動物と比して考えれば「人間らしさ」を主張できた時代を脱し、「人工知能」とくらべて「我々らしさ」=「人間らしさ」を主張しなくてはならない時代に突入した。「教育」はこうした時代を敏感に反映し、考えていかなくてはならない課題を提示してくれる。そのとき、「目的」を考えることは極めて有効な思考のための「手段」となる。

 

第二に、教育は不可能であるが、教育は「働きかけ」として可能である、という事実に対応する。教育は、対象者-多くの場合子ども-を任意の形に塑性することは出来ない。けれど、変わるように働きかけをすることはできるし、それがより望んだ方向に変わったように「見える」ことを測定することはできる。例えば「数学ができる」ことと「与えられた数学の問題が解ける」ことは完全に一致しないが、ある程度高い精度で「数学的能力」を測ることはできる。例えば「教育」以前には解けなかった問題が解けるようになったとなれば、その「変化」は教育の効果としてある程度までは認めてよいのではないだろうか。であるならば、その働きかけの方向を考えることはムダなことではない。何が「望ましい」のか、「望ましさ」の取得にどのように実践を近づけていくか、これを考えることは、「教育の目的を一意に決定することが不可能である」ことを前提としてなお、有効である。まとめ的に言えば「教育目的決定の不可能性」と「教育目的議論の有効性」は両立する。

 

 以上で教育の目的議論を終える。結局、私の重視する価値はあまり書いていない。けれどそれ以前の、思考の枠組として「教育の目的」を位置づけたかった、と本記事の目的を後付すれば、それも悪くはあるまい。重視する価値そのものは、学問的に立証していくことを目指していければそれでいい、というようにも思う。