ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

詰め込み教育は悪か

たまに、Facebookのタイムラインなどを眺めていると、変に最近の潮流に毒されて我を忘れたのか、身内でも殺されたかのように詰め込み教育を敵視したようなポストを見る。確かに過度の詰め込みには批判されるべき点も多い。詰め込み教育によって学校のプログラムが魅力的でないものに感じられるようになって、そこから離れてしまう子どもが後を絶たないという意味においても、それは単に効果のない教育方法であるという点を超えて、放置すればどんどんと悪さをする毒であり、早急に消毒されねばらない、という議論にも一理ある。しかし、本当に詰め込み教育は悪いことばかりなのだろうか。あるいは詰め込み教育は本当に必要ないのだろうか。

 

これからは、知識をどれだけ覚えているかではなく、知識をどう使えるか、その行動の帰結でもって人を測るべきであるという意味の、コンテンツ(知的内容)ベースからコンピテンシー(能力)ベースへの移行なんてことが教育界で声高に叫ばれている。こうした線に沿ってOECDは積極的に発言し、そうした発言にも影響されて(端的にはPISA型学力に志向して)学習指導要領は改定されるなど、世界的な教育改革の流れが形作られつつある。大抵こういう時に、旧来からの教育は、時代遅れの悪者扱いされるもので、極端な方に振れる場合が多い。そして揺り戻しが起こって中庸に落ち着くか、結局保守化して終わる、というのが常である。

 

そもそも、こうした転換は、歴史的に見れば、100年以上前に米国に端を発した新教育的学力観への再度の転換であると言える。新教育的なるものがどの程度、日本やアメリカ、ヨーロッパにおいて時代を超えて普遍的に継承されたかという評価の点になると、私は論ずる能も知識もないので言及を差し控えるが、少なくとも今の日本において、大正自由教育、戦後新教育、ゆとり教育と何度か新教育的学力観が導入されようとしたにも関わらず、学校現場がそういうように作り変えられていないことは事実である。(歴史的経緯を触れると専門に足を突っ込んでしまうので触れない)

 

何がいいたいかと言えば、今は過渡期であり、私がここで記そうとする言説は、極端に振れがちな過渡期にあって、その中庸的揺り戻しを企図したささやかな反論として位置づけられるということの確認である。私には、どうしても詰め込み教育を絶対悪として見ることには違和感があるのだ。

 

 

コンテンツベースからコンピテンシーベースへという議論の中でしばしば提起される疑義は、コンテンツ無くしてコンピテンシーは形成しうるのか、という根本的問題である。言い換えれば、卵が先か鶏が先かという問題で、知識内容があって始めて能力が身につくのか、能力があって始めて知識内容が身につくのか、という新しそうで古そうな問題である。どこかこうした問題を聞いていると、イギリス経験論と大陸合理論における論争を思い出し、カントによる折衷を思い出すが、無能がばれるのでここでは論じない。

 

こうした批判には一定の解が大抵与えられる。冒頭でも確認したように、単なる詰め込み=知識が先、知的能力があと、とする教育は、子どもがなぜこうしたことを学んでいるかという目当てを理解できず、モチベーションアップに繋がらないため、教育効果が低いばかりか、教育不信さえ生みかねない。実際生活に基づいた能力を意識して、それを使ってみることから始めて、コンテンツを肉付けさせていく教育は、モチベーションアップにつながりやすく、教育効果が高い、と。だから、先にコンピテンシーありきで教育を考えていくべきである、という議論である。

 

一分のスキもないような議論であるが、しかし、この解は、「コンテンツ無くしてコンピテンシーは育成できるか」という疑義に答えきれているわけではない。そこには、後者的に育てられたコンピテンシーが、果して本当に求められている「コンピテンシー」といえるのかという問題が残されている。

 

「新教育的」実践においても、基礎的知識の学習は本来、その前提として考えられる。ただ、教科的知識→合科的認識と進むのではなくて、合科的認識(経験に基く)→知識と進むことで、教育効果を高めよう、という教育改革である。しかし、多くの場合、「知識」の必要が軽視され、「実無き雄弁」ばかり育てる羽目になる。

 

この例から少しは感じ取っていただけるように、最初に子どもたちが知識の幹として獲得していたコンピテンシーは、根本からして実の無い、知識獲得によって反省的に改善されねばならない存在であるという点が、しばしば無視される。現時点で、誰も、どれくらいの量のコンテンツが、人々に期待されるコンピテンシーの基礎として必要なのかはわからないのである。ある意味、コンピテンシーというのは青天井であって、例えば「自律的に活動する」と言うコンピテンシーOECDの設定するキー・コンピテンシーの1つ)であれば、最低限のメディアリテラシー(これがどの程度にあるのかもわからないが)と、社会的知識及び態度があれば、人々は自律的に活動できるかもしれないが、その活動は、「自律」したつもりであって、実は社会的構造等によって意図された他律的な活動であるかもしれない。(「自律的」に「社会利益」に向かって行動できることはいいことらしいが)こうした内容から自律するためには、もっと高度な抽象的概念とそれを導く膨大な先人の蓄積を辿り、それを相対化して内面化することが必要かもしれない。学問という山を登り始めると、今まで自分が如何に低い次元でしか物をみえていなかったのかわかるが、依然高みがあることは容易に想像できるし、ここまでの歩みも、これから進んでいくことも相当な「詰め込み」にもとづいていることも理解できる。学問の山を登るとは、今まで関係ないと思っていた物事を繋げ、それを足がかりに前に進んでいく行為でもあるからである。

 

 

さて、議論の筋がみえてきた。私がここで指摘したいことは、コンピテンシーベースの新しい教育において、詰め込み教育は本来否定されるどころかか、より重要になるという見通しである。確かに、詰め込みありきで、その内容の豊富さばかりを競う旧来の教育は批判されるべき事も多い。そして、過激なアンチ詰め込み教育論者たちは、現代は情報化社会で、コンテンツなどググればすむから、むしろググるコンピテンシーメディア・リテラシーとも言う)にフォーカスして教育を行なうべきで、詰め込み教育などムダであると吐き捨てる。しかし、私の見立てでは、詰め込み教育は益々重要になるように思われる。それはなぜか。

 

 先日亡くなった私の塾時代の恩師が、しばしばエリート教育における「三ム主義」を提唱していたのを強く覚えている。すなわち、エリートの学習というのは「ムダ・ムリ・ムチャ」をする学習であって、効率化、内容の精選など愚の骨頂であるというのだ。高いコンピテンシーの育成が求められるエリート教育において、むしろムリ・ムチャをして、ムダな知識を詰め込むことはその教育的前提であって、三ム主義的学習を経て得た膨大な、一見関係ない知識を頭のなかで連結させてこそ高いコンピテンシーの育成のためには重要であり、そこを排してエリートを語るなという指摘である。

 

旧来的なエリート教育が論じられていた時代からみると、随分時代は「進歩」した。今や一昔前、エリートにしかせいぜい期待されていなかった能力が、すべての人に求められる時代である。もちろん一昔前と比べて、随分コンテンツにはアクセスしやすくなって、物事を結び付けて観察する目を養いうる環境は増えてきた。しかし、そのコンテンツは玉石混交、あまりにも雑多であり、それを批判的に払い分け、真により近いコンテンツを選び出す能力の必要性は日増しに高まっている。あるいは、その記述が前提とする知識を認識するには相応の知識に基づいた知的基盤が必要不可欠である。この基盤的なところまで一々ググっていたのでは、いくら時間があっても足りない。というか、その知的基盤を構成する塊は、一朝一夕の検索や何かで身につくような軽薄な能力ではない。高い次元で批判的思考をしようと思えば、勢い、詰め込みは極めて重要であり、コンテンツが氾濫する現代に合って、それはますます重要性を増している。

 

確かに、詰め込みから始まり、詰め込みに終始する教育は批判されるところも多いが、一点、大学に入ってから擁護すべきと考えたこともある。それは、高校時代などでがむしゃらに覚えていた単語的知識が、資料を読み進める中で有機的に結びつき、生きた知識へと変わっていくということである。ひどく具体的な話で申し訳ないが、世界史を履修していなかった学生が、必修で西洋教育史を学ぶ時に、一体どの人がどれくらいのインパクトを残した人なのか全くわからず、あるいはその時代がどんな時代であったのか理解することが、わずか1時間半×15回では理解できず、教える方もそれをフォローしきれず、結局重要なところはなに1つ理解できない、という実例を見てきた。私は世界史をやっていたから、各時代の教育史を聞いていてもなんとなく聞いたことある単語、人名が出てきてそれらを結び付けることで理解を進めた記憶がある。結局知識というのは、覚えたときには一体何の役に立つのかわからないが、思わぬところで出てきて驚きとともに理解に資するものになりうるし、何の役に立つかは、役に立ってみないとわからないということである。私が使い得た知識の多くは、受験と詰め込みという動機づけがなければ一生獲得されなかったであろう。

 

とっちらかり始めたのでまとめよう。詰め込み教育に終始する教育は、たしかに、教授は容易でも非常に教育効果が低い。何の役に立つか、分かった気にさせながらすすめる教育は、それ自体困難であり実現へのハードルは高いものがあるが、やはり目指されなければならない方向性であろう。しかし、わかった気にさせることと、真に「わかる」にはおおいな差がある。この間を埋めるには、一定の「詰め込み」が必要であるに違いない。

 

詰め込み「だけ」の教育は、方法論として批判される。しかし、詰め込むという行為、あるいはそれを推奨する場面は、時には極めて重要であるばかりか、これから益々重要になってくる。「無知の知」は、圧倒的な知性があって始めて認識できるのだ。このことを忘れて詰め込みという姿勢を全否定してはならないように思う。