「個性」を活かす教育とはどういうことか
人間には差異がある。容姿も能力も生まれ育つ境遇も生き方も千差万別である。そして我々は様々な尺度(価値観)でそれを測ろうとする。しばしば、そうして測られる差異の内、善いものが「個性」と称される。私が見聞きしてきた限り、教育畑ではだいたい、「個性」と「教育」の間には「尊重」という単語が入り、「個性尊重の教育」と書かれる。
大抵、個性尊重の教育と唱えられる時、前提とされるのは、「みんなちがってみんないい」だとか、「人間一人ひとり、みんなどこかいいところがある」という一見優しく、しかしひどく暴力的な理論である。そしてみんなには一人ひとりいいところがあるのだから、そのいいところを伸ばしましょう、というのが個性尊重の教育の論理である。
個性尊重の教育は、しばしば、画一的で全体的な教育へのアンチテーゼとして主張される。エリート主義に立つ論壇からは、画一的で全体的な教育によって、若き才能が抑圧されることは社会の損失であるとして、個性尊重の教育が擁護され、平等主義に立つ論壇からは、一人一人の個性を認めそれを尊重する教育は、子どもにとって平等で善いものであるとして擁護される。
しかし、勿論、個性尊重の教育には重大な批判が唱えられる。そしてそれは至極最もなものである。私は先程、「暴力的」であると個性尊重の前提を切り捨てたように、人が「自身の良いところ」と自信をもって誇りうる点は個々人にはそう多くは存しないのに、「良いところ探し」を強調され、暗黙裡に尊重されるべき「良い個性」が想定された結果、たいてい「自分はいいところなんぞ1つもない最低なクズだ…」と自己嫌悪に陥るか、よい「個性」へ向けて自己を同一化させようともがき、アイデンティティを分裂させる。そして、尊重されるべき「個性」への競争に人々は投げ込まれ、結局個性尊重の教育という論理によって正当化された競争は、実は取りこぼしている多くを排他しみえなくし、格差を拡大するのである。
無論、こうした個性尊重は、左派的な視点から、包摂と自己肯定感の向上のために唱えられることも多い。しかし、善いとはいえない個性は、この場合でも見つめられない。あるいは、価値観を転換し、ある個性を「善いもの」として認めようという運動へと展開することが多い。結果的に、特別ポジティブな要素を持たない差異にまで、無理にいいところ探しを強要され、「個性」の暴力性が強化される場合さえある。いずれにせよ「個性尊重」という善悪で人が切り分けられる限り、「個性」に潜む暴力性は解消されず、「いいところ探し」の際限なき競争から我々が逃れることはできない。
少々性急に議論を進めてきた感があるが、要は、「尊重」などという、善悪という価値判断を内在させた単語を「個性」という単語に付与するのは暴力的ではないかという指摘である。個性尊重、一人ひとりが活躍できる社会、としばしば悪意なく唱えられるが、それは大抵の場合、ひどく選抜的な、排他的な論理を含んでいることに目を向けなくてはならない。では、特に教育において個性はどのように扱われるべきであろうか。
私は、冒頭で「個性」を個々人に存する「善い」ところとして定義したが、まずここから見直さなければならないだろう。個性とは、個々人がもつ、他者との「差異」に過ぎないと認識するところから始めるべきである。「みんなちがってみんないい」というが、「みんないい」状態はそう多くは存在しない。学校教育機関であれ、社会に出てからであれ、人は常にある尺度、価値観によって選別され、優れた人、「善い」人とそうでない人にわけられる。こうした状態が廃されるのは、とりあえず日本国においては、所謂「基本的人権」と呼ばれる一団の前に人が平等に整列させられる時場合などごくわずかである。(こうした場合でさえ、ミクロな「権利」では平等でもマクロに、構造的に見れば差異が存在する事も多い)
個性が善いものでなくなれば、これまで、「個性尊重」の文脈では「個性」に含まれなかったか、あるいは無理に強調されて「尊重」されようとしてきた諸性向、例えば発達障害などの症状もまた、容易に個性に含められるようになる。ここで、表題のように「個性」を活かす教育へと発展する。いくつかの、教育を受けるすべての人が持っているとされるべき能力を与える時に、効果的な方法はそれこそ個性によって千差万別である。みんなちがって「みんないい」まで議論を発展させず、単純に「みんな違うのだ」という、至極当然な、しかししばしば無視されがちな視点を開くために個性という観点は導入されるべきではないか。それは善悪ではなく、単に方法論的な違いの場合に論じられる程度のものである。公共の福祉に反しない限り、別段、個性は抑圧されるものでもないし、あえて強調されるものでもない。教育において、無理に個性を尊重しなくても、社会のほうがその要請に従って勝手に「個性」を選抜するのだから、学校教育の現場くらいそうした価値からフラットであってもよいと思うのだ。
結論から言えば、教育によって「個性を活かす」時は、個性を伸ばす場合ではなく、むしろ、教育によって整地されるべき共通部分の能力を育成する場合に限るということになる。例えば、日本の学校教育を修了する人は、義務教育レベルの基本的知識・技能・態度を有しているべきであるから、それを育成する時に、「個性を活かす」という認識に立った個別的方法論は積極的に取り入れられるべきである。それ以上に、社会の要請に鑑みて善い「個性」を伸ばすのであれば、それは私的に行われるべきことであって、公の、全体的な学校教育期間が先導して行なうことではないように思うのだ。