ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

哲学書を読むということ

私は、一応人文系学問を志すものとして、「哲学書」と評される書物にあたることも数多い。先日友人が哲学書の話をしているのを聞きながら、そういえば「哲学書を読む」という行為は幾分特殊な行為であると一人考えた。今回はそんな、哲学書を読む時の話である。

 

1. 我々はなぜ「哲学書」を読むか

一般に「哲学書」と呼ばれる書物は、くどくどとよくわからない言葉をこねこねしているイメージを持たれるかもしれない。確かに概して語彙レベルは高く、難解で、様々な事象を視野に入れながら論理が作られているため、その記述は複雑で内容が豊富に過ぎ、すべてを「理解」するなど不可能である。しかも、(私を含め)だいたいの人は翻訳版で哲学書を読む程度の能力しか持たない。そうすると言語に込められた意図の多くは欠落し、更に理解への道は遠ざかるばかりである。哲学書とは、概して「わからない」ものなのである。

 

しかし、わからないからこそ、哲学書は「かっこいい」ようにみえるものである。なんとなく「哲学者」と呼ばれる人は、男の子的にはかっこよくて、厨二心をくすぐられる。ニーチェの「神は死んだ!」なんて最高に厨二心を刺激する。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものに関しては沈黙せねばならない」なんて、かっこよくてなんとなく使ってみたくなる。ニーチェに関しては不勉強どころの騒ぎではないから置くとして、ウィトゲンシュタインの『論考』を読めた!という人はおそらく別世界に旅立ってしまった人であろうから、ぜひあれをご教示いただきたいものである。私にあれは無理だ。

 

少し話がそれたような気がするが、実は本筋である。というのも、私が哲学書を読むようになった第一の理由は、「かっこよく見えるから」に他ならないからである。必要にかられて読まざるを得なくなってしまった最近はそうでもないが、私が哲学書にとっついた最初の理由は、こんな下賤なものである。そこに真理が書いてあるからとかなんとかそういう崇高な理由ではない。厨二心をくすぐられるようなことが、「哲学者」という肩書を持っていると大手を振って書けるのである。カントの描いた人格なんて、理想的に過ぎて、飲み屋でぶち上げるならいざ知らず、「カント」に権威を感じない人がシラフで大真面目にそれを話す人をみたら大笑いしかねないとさえ思う。(もちろんカントの描いた倫理観、あるいは論理はそれ自体の実現可能性を置いて、学ぶべき点が非常に多い、あまり好きではないけど)けれど、『純粋理性批判』なんて読んでいたらなんとなく知的な感じがして、かっこよく見える、ような気がする。そんなことを考えている年頃であの本が読めるわけがないのだけど、第一はこんなところだろう。

 

少々、下賤な話を記したが、しかし何はともあれ哲学書と格闘してみると、やはり読み継がれている理由に気づく瞬間もある。まず、彼らは大抵文章がうまい。というか言葉のとり方が一々かっこいい。これは翻訳者の能力如何によって大きく変わるし、大抵の翻訳者というのは、読み違えていることも多い、というのは最近になってようやくわかり始めたところだが、ともかく、ちょっと自分には思いつかない言葉のとり方で、書かれてから数百、数千年と経っているはずの今でさえ現実味をもつ文章を作りだす。全てわかる気は毛頭しないけれど、はっとさせられるフレーズがたくさん出てくる。この体験はかなり愉快である。プラトンの『国家』において、哲人王と教育について論じた項など、書かれた時代を考えると果てしない。マキャヴェリが正装をして古典にむかった、という逸話もなるほどわかるところである。

 

私が哲学書の中で気に入っているフレーズは多数あるが、最近目にしたもので気に入っているのは、ウォルストンクラフトという18世紀フランスにおいて女性の権利を主張した思想家の「無一物の存在は寛大たり得ず、あるいは不自由な存在は有徳たり得ない」というものである。

 

無一物の存在が寛大たり得ないというのは、常識といえば常識である。食うや食わずやの人々は、(よほどの聖人でも無い限り)他者に寛大に施しをすることはない。精神的に含蓄の無い人は、自らの知らない世界の物事に対して寛大に接することは出来ない。これはわかる。しかし、個人的に衝撃だったのは、こうした論理に並び立てられた「不自由な存在は有徳たり得ない」という一文である。不自由な存在、ウォルストンクラフトの場合、中産階級以上の女性を指しているが、は、不自由である限り有徳になりえないというこのフレーズは、それ自体、女性には徳がないとして男性優位を主張する伝統的な考え方に対する強烈な反発を示しているが、それ以上に、「自由」の必要性について深く考えさせられる一文である。無一物であることと不自由であることが並列されること、そして対偶をとれば有徳たる存在は自由である、というテーゼは、「責任」を強調し、相手を未熟、不徳、能力不足として、自由を有する人が自由を与えようとしない社会全般に頻発する言論について非常に示唆的である。

 

少し長くなったが、哲学書を読む理由の第二は、「ハッとするフレーズ探し」である。例えば、インターネットの海で自由に多くの人が発言する現代では、日々名言が生まれるが、それが終生人々の心に残ることは少ないし、建前を考えると公的な場でそれを引用するのははばかられる。読み継がれる哲学書を書くような哲学者は、日々のあらゆる問題について気が狂うほど考え、学び続け、一つ一つのフレーズを絞り出しているように見える。そして、彼らの思想は、現代を形作る制度を作った人々の多くに影響し、そして相当の権威を有している。彼らは巨大すぎて、彼らの前には、我々は大抵謙虚になれる。君、気張らずに話せる仲間は大事だよと、同格の相手に言われても、場合によってはなんとなく突っかかりたくなるかもしれないが、ヤスパースに「実存的交わりの必要性」を説かれればそんなもんかと思うかもしれない。「ハッとするフレーズ探し」はやはり、哲学書を読む愉快の中でも相応に大きいものである。

 

ところで、先程、「必要に迫られて」とさらっと書いたが、これこそが哲学書を読む第三の理由である。「学問をするため」というのがその理由である。これまた先程ちらっと書いたが、偉大な哲学者は、時の所謂エスタブリッシュメントによって読み継がれている。そして、その思考の基盤となり、あるいは共通の論理として息づいている。もし学問をしようと思えば、どうしても古典にあたって学問者の共通言語を習得しなければわかるものもわからない。さらっと書いてあるフレーズに込められた意味を理解するにはやはり、哲学書を読まねばならない。「自然」というなんでもないフレーズを見た時に、特に西洋近代哲学に連綿と刻まれた自然と人間の関係性を想起できなければ、分からない事も多い。学問をするなら、哲学書は普通避けては通れない、はずなのだ。

 

 

しかし、学問をするために哲学書を読むのは何も、共通言語を修得するためだけではない。哲学書それ自体が、偉大な先人の足跡そのものに他ならないからである。読み継がれる哲学書には、やはり、相応に真理を求めた人々の到達点が、三者三様の様式で記されている。その観点は特異にして重要であり、ある一端を切り分けるメスとして極めて切れ味がいい。全霊を持って磨き上げられた論理を、なんとか理解してやろう、やっつけてやろうと挑むことは学問者の批判的思考力、論理的思考力を試し、育み、その意識を真理の光の方へとむけかえる力を持つ。だから哲学書を、我々は読みついできたのだ。

 

なんとなく、哲学書=古典と読み替えて論理を展開してきたことに、ここに至ってようやく自覚してしまったが、上記の論理は、最近書かれた哲学書に対しても同様に言える。古典は時代の評価を経ているが故に価値があるとする思想にも理がないわけではないが、やはり現代の哲学書はそれはそれで、真剣に真理を求めた人々の到達点である。であるならば十分読まれるべき価値は在るであろう。

 

2.「哲学書」はどう読まれるべきか

ここまでの論理を辿ってみると、哲学書には無謬の価値があり、「読まれるべき」存在であるようにさえ思われる。しかし、冒頭で記した、哲学書は基本的にわからない、という事実は、ここで再度確認されてしかるべきであろう。

 

なぜ確認されるべきかと言えば、偉そうに「デカルトが~」とか、「マルクスが~」なんて言っている人の多くは、それが大学教授であろうが、いけ好かない学生であろうが、市井のよくわからない親父であろうが、概して読めていない、と言う事実が一方であるからである。みな、自分の持つ能力の限界を持って哲学書に臨むが、哲学書を理解するためには、時代ごとのコンテクストを理解し、テクストの単語、一つ一つのもつ意味の方向性を知悉し、そして、それが記された意図を知らねばならないが、ここまでするのは並大抵の能力ではなく、どだい無理である。例えば今、我々が「ポピュリズム」と記せば、他に何も書いていなくても、トランプの大統領選当選を念頭に置いていることは否が応にもわかるが、もし100年後の人が現在の「ポピュリズム」言説を読めば、こうしたことすら研究して確認しなければならない。これら全てを知り、同時代の人と同じように哲学書を読み、記してある内容を完全に理解することは不可能である。

 

ましてや、一般人か、それに毛が生えた程度の我々が哲学書に当たったところで、むしろ得るものは少ない。時代のコンテクストに支配され、哲学の伝統に基礎を持つ難解な語彙と論理で複雑に組み上げられたそれは、なんとなく読んでいて眠くなるし、時間もかかるし、ほとんど理解できないまま無為に時間を過ごすに違いない。あえて難しく書こうとしている場合さえ、ままある。であるから、たとえ思い違い、思い込みを多く含んでいたとしてもその本に関する概説書の一冊にでも当たったほうがよほど様々わかるというものである。

 

 

しかし、逆に概説書一冊で知ったかするというのも考えものである。あるいはその哲学書に貼られたレッテルを信じてそう読み解く、あるいは一部分を切り出してフレーズ単位で読んでいくというのも正しい読み方ではない。例えばベンサム功利主義者として名高く、功利主義そのものについては、マイノリティの迫害という点で重大な批判がなされるが、何もベンサムがそれに無自覚であったわけではない。であるのに、「ベンサムはマイノリティ迫害を正当化する論理を無自覚に主張した!」などというと途端に怪しくなる。あるいは、ルソーが性善説と児童中心主義に立って『エミール』において消極的教育論を論じた!として、フレーズを切り出して拾い読みし、分かった気になって「ルソーはかく語りき!」なんて声高に叫ぶと随分おかしなことになる。 『エミール』は確かに、子どもの持つ発達段階を否定し、ムチを持って子どもの世界と関係のない知識(例えばラテン語)を叩き込むような旧来の学校教育を批判しているが、いかように教育すべきかと言う部分については、随分無理がある論理を展開している箇所も多い。批判書としては極めて重要な視座を提供するが、「だからどうした?」の部分は弱いにも関わらず、「だからどうした?」の部分を脳内補完して聖典のようにそれを読もうとする様は愚かで滑稽である。

 

少し教育学の伝統批判に足を踏み入れ言葉が荒くなってしまったが、結論としては、哲学書は取っ掛かりとしてはフレーズ探しやかっこよさで読まれてもよいし、そう読むことは全く個人の自由であるが、それをツールとして取り組む、あるいは誠実に向き合うのであれば、もう少し別様の読み方があるということになる。

 

哲学書は宝の山である。キラキラとした言葉が我々を助け、道標となり、あるいは反省的思考を作りだす。だからこそ、「哲学書を読む」と言う行為は、例えばライトノベルを読んだり、インターネット上の言説に対するのとは随分違った行為になる。これが「小説」になるとまたいろいろな主義主張が生まれてフォローしきれなくなるのでここらへんで論を閉じよう。哲学書はいいぞ!と言う話であった。

 

(P.S.ルソーのことを、「ジャン・ジャック」ってよぶのかっこよくないですか)