AO入試を考える
Twitterで随分前だが一つのツイートが流れてきた。
先日お会いしたある研究者の方が「AO入試枠は最小にしたい」と仰っていた。「裕福な家庭で予め文化資本に恵まれて留学経験やボランティア実績やらがある子ばかり入学させてたら、教育現場でも格差は開く一方。それよりは勉強“さえすれば”学歴が手に入る可能性を増やしたい」…すごく正しいと思う
— kyarako (@ako2001) 2017年4月19日
このツイートは多数RTされ、喧々諤々の議論を巻き起こしている。このツイートを眺めながらそういえば自分がAO入試と随分近い所にいたことを思い出した。今回はこの「AO入試」という代物を考えてみたい。ちなみに私はAO入試の拡大には消極という立場をとることを先に記しておく。
・AO入試とは何か。なぜAO入試は行われるか。
「AO入試」という入試形態を果たして一語でくくっていいものだろうか。オリジナリティあるAO入試を実施している学校も多い一方で、それ推薦入試と何が違うんだ??となるようなAO入試を実施している大学も多い。一応各大学のアドミッションポリシー、すなわち大学の目指す所、に沿った人物を選抜することを目指した入試である。大抵、自己推薦書やらなにやら幾つかの書類を提出させられ、その後面接を行なうことで選抜を行なう。高校時代の評定が問題になる場合もある。
AO入試の謳い文句は色々あるが、私が最も説得力があると考えたのは、「ある集団の中に異才をある割合で放り込むと集団全体が活性化する。ゆえにAOは必要である。」というような言説である。確か東大推薦入試に関して聞いた言説であったと思うが、確かに一歩間違えば気が触れたのではと錯覚するようなオタク、もとい異才が多数いた自分の高校時代のコミュニティを思い出すとこの言説は相当に説得力があるように思う。AO入試は確かに尖った異才、それは通常の筆記試験では取りこぼしてしまっていたに違いない異才を拾い上げる作用はあるだろう。
「異才」やら「異能」、「天才」が求められる社会的土壌というのは確かに存在するし、AO入試はこの点にも必要性の基盤を有している。私などは疑ってかかっているが、これからはイノベーションの時代であり、イノベーションの能力こそAI時代において人間が果たしうる役割である。「イノベーション」のロールモデルはスティーブ・ジョブズのiPhoneやマーク・ザッカーバーグのFacebookなどに求められ、彼等のような自由な発想が許容される社会が、そして彼等が自由に能力を発露できるような環境整備が求められる。というかイノベーションの時代はやがてそうした社会をつくりだし、学歴主義を打破し、資本は彼等に集中する。だからそうしたイノベーションの環境として大学が活用されるべきで、逆説的に云えば、イノベーションの時代に生き残るための新しい選抜手法が必要である、そしてそのためのAO入試である、というように。
もう1つ、AO入試の効能を代弁すれば、少子高齢化の進行と大学進学率の高止まりにより大学間競争が更に激化する現代、各大学は大学ごとの差別化を求められ、ひいては選抜手法そのものの差別化が求められている。十人横並びの筆記入試ばかりではなく、自分の大学の色を定義し、特色ある入試、すなわちAO入試を行なうことで多様な学生を集めようという意図があると考えられる。
以上3点がない頭を絞って考えたAO入試の効能である。確かに説得力がある。しかし、いくつか疑義を提起することは可能であろう。それを上げることでAO入試そのものを考えていきたい。
・AO入試は教育格差を拡大するのではないか
まず一点目、まさに冒頭のツイートに関連して、教育格差の拡大を助長するというような言説についてである。これに関して自分は、肯定的でもあるが否定的でもある。
このツイートに対して多く寄せられた批判が、「筆記型入試もまた教育格差を再生産するから、勉強”さえすれば”学歴が手に入るなどという言説はまやかしである」というものである。これは、再生産論という教育社会学的言説に立ってみればとりあえず、事実を述べたものであるには違いない。
(教育の再生産論をもとに、学歴による賃金格差はなぜ起こるか、給付型奨学金は正当な政策かについて検討した記事)
しかし、この批判が当を得た批判か、というと非常に疑わしい。まずこれはAO入試と筆記型入試のどちらかが、教育の格差再生産効果に対してより強く作用するかという比較議論を無視している。ツイートで述べられている「可能性」という語を意図的に見落としていると言ってもいい。ここについて、教育社会学的に議論するのであればデータに基づいてあれこれ言うべきであろうが、生憎手持ちデータが無いので所見を述べれば私はAO入試のほうがより直接的かつ強力な格差再生産機能を有しているように思う。理由はいくつかある。まずそれが面接や文章評価を含む、「知識獲得競争」という単純な受験ゲームの域を超えた、多様でより文化資本によって左右されるような選抜機能を有していると考えられる点、あるいはもっと言ってボランティア経験や留学経験などそもそも文化資本の多寡そのものによって選抜しているように見える点などがそれである。それよりは、単純な受験ゲームで勝ち負けを決する方がまだ、ミクロな格差逆転の可能性を残しているのではないだろうか。
もう1つ、この批判について的外れであると考える点は、それがマクロな視点のみからなされているという点である。少なくともツイートに出てくる研究者さんは専門用語である「文化資本」という語を使っているあたり再生産論をご存知に違いない。その時点で筆記試験も…という批判は有効でなくなるのだが、さらにいえば、ミクロな、「逆転できるかもしれない」という願望に似た作用にアプローチしたツイートであるという点を見落としている。私は、筆記試験を中心とする受験ゲームは、まさに目の前の用語集一冊を頭に詰め込めばそれまで何をしていても問われない、というシンプルさゆえに、多くの人に自分でもできるかもしれない、という一種のやる気を煥発し得ているように思うのだ。高校時代、何度遅刻していようが、模試でどんな酷い偏差値を叩き出していようが、ゲームばかりしてろくに自己研鑽に務めていなかろうが関係ない。家にお金がなかったとしても、何とかなりうる可能性はある。全ての条件は切り捨てられ、目の前に提示された問題に答えられたかどうかだけが合否を分ける。この単純さは、AO入試にはない。AO入試を受けようと思った時に、多くの人達は既に「ノーチャン」である。そこに逆転の可能性はない。確かに筆記試験も、結果をマクロ的に整理すれば多くの人たちはほぼ成功の見込みがないことがわかるが、それでも「可能性」はある。この可能性という点にアプローチしたツイートを頭ごなしにマクロ的に否定することは有効には思われないし、少なくとも「そんなことは百も承知」した上での言説なのではないだろうか。(マルクス的批判が取りこぼしている点とも言い換えられる。マクロな話だけで社会が進むのであれば世の中はもう少し効率的に進んでいるはずである。)
さてツイートへの批判に対する批判だけで随分長く字数をかけてしまったが、要は、AO入試の格差再生産性を他と比較しながらどのように捉えるにせよ、非常に強力な再生産作用を有した入試形態であることは間違いないだろうと思う。そして多くの場合、再生産構造は当事者には意識されない。「合格」という個人的成功はまさに自らの個人的な努力あるいは能力に還元され、個人を包含する「歴史化された自然」(≒環境)による作用は意識されない。さらに、再生産構造が続く限り他の階層と交わることは無いから、益々自らの境遇を客観視出来る機会は少なくなる。こうした点に光を充てるのがまさに学問という営みであるがここでは置こう。
・AO入試は異才を選抜しうるか
さて、再生産論的批判は、言ってしまえばありきたりでAO入試に固有な問題ではないし、本質的ではない。おそらくこの疑義こそがAO入試に対して最も強力な批判である。
東大推薦入試は置こう。あの合格要件を見ていると、確かにあれに受かるやつは異才だ。私の後輩にもあれで通ったのがいるが、飛び抜けてできたし、もし一般で受けても受かっていただろう。東工大AOなども置いてもいいかもしれない。同期で1人東工大AOで選抜を突破した友人がいるが彼なども異様に数学ができた。受験期などはしばしば数学のかなり難解な問題を持っていって、その場で解説してもらっていたくらいである。間違いなく一般入試でも受かったであろう。
問題にしたいのは慶應か、あるいは慶應より更に下のレベルの諸大学のAO入試制度である。まず根本的に言ってしまえば、社会に異才はそんなに多くない。他者と異なる才能は、せいぜい「帰国子女の英語力」とか程度になるのではないか。それなら現状の英語さえできれば大抵の大学は受かる現状で十分である。それ以外で評価されていること、すなわち「高校時代に取り組んだ進歩的な内容」で異才を測るのはいささか疑問が残る。
昨今、随分燃えたがAO入試対策を専門で行なう某塾(エゴサがきつそうなので一応伏せる)がある。あれの塾長には個人的に何度も会ったことがあるし、そもそも出来てわずかなときから知っているし、出ていること出ていないこと、事実かどうかわからないものまで含めて随分いろいろな悪評を聞いている。あそこの手法というのは当初から制度そのものを破壊するそれであった。
塾は、塾生を受からせるために、塾生に社会貢献や政治参加などを目指した種々の取り組みをさせる団体を作らせ、そこに高校生の他の団体に対するには多額の資本を投入し、ノウハウやコネを注入する。塾生(高校生)たちはそこに取り組む中で評価されうる「実績」を積み、他の高校生とはちょっと違う体験を持った高校生に作り変えられる。
次に、多数の合格者をもとに作られた「自己推薦」等のノウハウをもとに、高校生の思いをどれだけ反映しているか疑わしい資料作成を行わせる。さながら就活セミナーであるが、ある意味それを前倒しで行っているだけともいえる。一時期は、講師が高校生が作るものであるはずの自己推薦書その他を代筆しているという噂さえあった。こうなってくるともはや評価されるものすべてが、慶應であれば慶應に受かるためのまやかしの価値であり、塾によって作り上げられたものである。
無論、某塾はその合格メソッドを洗練させることで、ある程度まっとうな教育産業に乗り出し(塾生の大半を塾の金で活動に送り出すようなことはもうしていない)、「代筆」など行っていてはとても追いつかないであろう多数の塾生を抱え非常に大量の合格者を慶應その他に送り出している。そのメソッドを求めて入塾した異才を鍛え上げ東大推薦入試の合格者も何名も出したというのだから大したものである。慶應に至っては他の塾もなし得ていない、驚異的な占有率を達成している。(あの合格者数の数え方も相当黒い話を聞くがこれはどこの塾にも共通するものであるから置いておこう)
この占有率そのものがAO入試制度そのものの破壊であるという指摘はあたるだろうが、とりあえず某塾批判をしたいのではない。端的に言えば、AO入試にはAO入試の対策があり、それがある限りAO入試は異才を選抜しえないという事実である。
私の友人で、慶應の法学部政治学科やSFCにAOで受かり今日も通学している知人が相当数いるし、彼らの中でAO対策塾に通っていた者も相当数いる。確かにその中には、あ~この人には勝てないな、と思えるような異才もいるが、どうにも「普通の人」が多いような気がしてならない。どころか、学問的才能(あるいは基盤)に随分と欠け、必死な努力を余儀なくされている人も多い。特に、SFCの先進的チャレンジが評価されるにはもうしばらく年月が必要であろうが、私はあの取り組みにはいささか懐疑的である。というか、相応に成功はする(現に”SFCらしさ”は形成されている)だろうがそれが一体、それを行わなかった場合とどれだけ違うのか、という点で懐疑的である。
慶應でさえこれだから、他の大学に至っては、その効果に一層懐疑的にならざるを得ない。推薦入試に対してなされる、根拠があるか疑わしいやっかみ、すなわち能力(学力)の低いものが「楽」をして合格をつかみとっている、というものはAO入試に対しても同様に言える。(やっかみである所以は、「楽」であるならば「楽」を取らなかった個人にも責任があるからである)どころか、まだ高校時代の一応の真面目さを測ると言う意味ではある程度有用であるといえる推薦入試と比べ、よりいっそうこのやっかみは現実性を帯びるのではないだろうか。
もちろん、評価軸そのものが違うという批判は当てはまる。旧来的な、筆記試験による画一的な評価、画一的な選抜をやめるという意図はよく分かるし、であるから旧来的な評価軸では「無能」な学生が選抜されるというのもやむを得ないことであろう。故に、私はAO入試のこうした作用をもって「無用」とする気はないがある一定の割合以上拡大されるべき手法でないように思う。AOというのは一般入試に比べて馬鹿にならない程評価コストがかかる制度であるし、であるのに「筆記型試験」より効果が期待されないか、期待されても僅かであるならば大手を振って拡大すべき手法ではないように思うのだ。
もう何点か疑義はあるが、とりあえずこの2つは重要であるだろう。
・まとめ
大学は今、戦後迎えたものと同じくらい、大規模な転換を迫られている。大学間競争の激化とともに大学は「選ばれる大学」を目指さなくてはならなくなった。今まで殿様商売を出来ていた大学が、いわば企業努力をしなくてはならなくなり、特に日本の大学の大半を支えてきた私学にとってそれは死活問題である。選ばれるためには他者、すなわち同じような偏差値の大学との差別化が必要である。ある大学は就職率を誇り、ある大学は手に職がつけられることを誇る。こうした見栄の張り合いの中で、残念ながら学問は二の次になり、あるいは本来的な大学の価値に関する競争はなりを潜めていく。かつて高校の学校間競争の際に起き、そして学歴主義という文脈の中で受験戦争が巻き起こって本来的な教育効果が著しく傷つけられた文脈と一緒といえば一緒である。
こうした流れをある程度本質的な競争、すなわちアドミッションポリシーに沿った健全な競争に戻そうとして進められるAO入試という取り組みには一定の有効性があることは確かに認められる。現に諸外国では、AO的な取り組みが一般化され、日本のような画一的な受験ゲームは廃されようとしている。
しかし、何事もバランスが肝要である、という愚にもつかない、時には非常に無責任な言説はこの場合にも重要である。一体、AO入試には過度に拡大されるだけの価値はあるのだろうか。あるいは今までのような単純な受験ゲームにはそれほど価値がないのだろうか。私は両者にそこまでの本質的な違いは感じない。AOを入れようが入れまいがトップ校は差別化されるし、中間以下は差別化されない、あるいは、今まで測られてきた能力以上の何か社会的にコンセンサスを得られるやり方(あるいは評価軸)で受験者が測られるとは余り思えない。あくまで取り組み方が変わる、それだけの話ではないだろうか。
冒頭で私が賛同したように、AO入試を用いた学内の多様化、コミュニティへの刺激という作用を私は強く支持する。コミュニティは多様であるべきであり、効果が限定的であってもAOはこの点にいくばくか好意的に働くに違いない。しかし、極論は常に耳半分で聞かなくてはならないように思う。単純さは必ずしも悪ではない、と私は考えるのだ。