ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育ポエムを考える

世の中には、「教育ポエム」がありふれている。こう断定的に始めるのも時には悪くあるまい。教育議論はしばしば「教育ポエム」によって錯綜し、一層見えにくく無意味で、あるいは「どっかで聞いたよそんな意見」といったような状況を現出しがちである。

 

さて、教育ポエムを糾弾するのだから、代表的な教育ポエムを定義し例示しなくてはなるまい。教育ポエムとはいうなれば、教育や子どもに関して憧憬的なポエムを綴る行為全般を指し、「教育」を語る時に私も含めてしばしば行ってしまう行為でもある。だいたい子どもを語る時に、「キラキラとした」とか「生き生きした」とかそういう単語が使われ、あるいは教育を語る時に、「有機的な」とか「個性を育む」とか「相互に学び合う」とか「活動的な」とかそういう単語が使われる。「「御社ァ!潤滑油!!」並に聞き飽きた表現である。上の単語が使われるときは、現行の「無味乾燥」な教室風景と対称的な「理想の教育」を語るときであるが、もう少し保守的に「道徳的な」とか「礼儀が正しい」なんて文脈でも教育ポエムは顔を出す。総じて、反論を許さないような、あるいは結局のところの子どもの個別性には全く配慮しないような理想的価値について語る時にポエティックな語りが行われる。

 

あるいは語りとは言わなくても、大抵、子ども時代を考え、子どもの教育を考える時、我々はしばしば社会や現状とそれを切り離して、憧憬的にモノを考えがちである。我々にとって「子ども」は「無限の可能性」を持つがゆえに「貴重」な存在であり、彼らの歩んでいく道の無謬の可能性は理想的・憧憬的に捉えられるものであるのだろう。彼らが生きていく社会は、現在と地続きのわずか10年かそこら先の社会であるという事実は念頭にはないようである。

 

糾弾すると書いておきながら私自身、別に教育ポエムそのものを「悪」とする気はない。善い教育について語り、あるいは考える行為それ自体は否定される類のものではない。理想的には否定しにくい諸価値とは、それ自体が社会的に目指すべき価値として合意を得やすい価値であり、それを希求し合意形成を行い目指していくという方向性それ自体は否定される類のものではない。

 

しかしながら、教育ポエムはしばしば行き過ぎる。しばしば、行為主体の教師あるいは子どもの実態を無視する。あるいは、彼らが形成される環境を無視し、社会そのものを無視する。こうして議論は二分的に分裂する。ポエティックな思考が、実際の実践を圧迫しそのギャップにより多くが苦しむことになり、やがて二分的にロマンティックな教育を子どもに押しつけるか、あるいは徹底して現実的で近視眼的価値を子どもに押し付けていくことになる。ついには、現実とポエムが互いに交差しなくなり、教育は実社会にも寄り添わなければ体系的な哲学にも根ざさない中途半端な存在になって漂うハメになるのだ。

 

ここで教育という行為を「子ども」に対するものに限定して考え、なぜ教育はポエティックに語られるのかをもう少し詳しく考えてみよう。

 

この時点で捉え方に大きく相違が出るのだが、仮の定義として置いておけば、社会とは「大人」によって構成される。教育とは、子どもという新参者を社会に組み込むための準備であり、あるいは社会を、大きく言えば文化を受け継ぐための営為である。我々は教育という行為を通じて、先人の積み重ねを受け継ぎ、あるときには問題を解決しながら、あるときには先人と同じことを繰り返しながら、厳しい生存競争の中で支配的な立ち位置を築き上げてきた。こうして捉えれば、本質的には教育は迎え入れられる社会に従属的にならざるをえない。社会に必要な人材、社会に迎え入れられるために必要な価値、知識を習得した個人を作ることこそ教育に必要なこととなる。

 

しかし、しばしば子どもを迎え入れる側の「社会」が理想的に捉えられる。子どもが向かっていく先には明るく幸せな未来が広がっていなくてはならないという一種の強迫観念に我々はとらわれる。無限の可能性を持った子どもはみな幸せにならなければならないという理想主義が、現実の社会から随分離れた所に「子どもが迎え入れられる社会」を創り出し、その理想の社会とやらに向かって子どもを教育しようとする。彼らがいざそういう教育を受けて飛び込んでいく先にある社会は、描かれていた社会とは随分と勝手が違っていて、勝手が違うことにどれだけ早く気づけるかが現状、社会的成功に直結している。

 

学校で教えられる社会と、現実の社会のギャップなどいくらでもある。社会における関係性は学校におけるように無条件的ではないし、プラトニックではない。社会は汚い側面を「大人の恋愛」「社会人としての心得」などとごまかしそれがわからない「子ども」を時には嘲笑する。大人は常にダブルスタンダードであり、子どもに理想を解く小学校の先生が、大人と対するとき、すなわち社会的生活を営むときには随分とドロドロした関係性に身を置いていることなどしばしばである。教育がポエティックに語られる本因はおそらくここにある。今の自分が随分と酷い状況であるから、あるいは昔想像していた純粋な自分とは随分違うから、そうならないように自分ができなかったことを憧憬的に子どもに丸投げしようとするのである。自分もまた数多のそういう期待の中で育ってきたことを忘れているのだ。

 

それではと、子どもに実際の社会を教えようという動きが出てくる。それは大抵フォーマルな形ではなく、教室での雑談のような形や、日頃インターネットなどで触れる情報によってインフォーマルな形で伝達される。インフォーマルである、ということは無秩序であるということであり、しばしば子どもは一面的な社会ばかりに目を向け、絶望したり無邪気に希望をいだいたりする。「大学生活は楽しそう!!!!」と思う子がいる一方で、「大学生なんか怖い…」と思う子がいることが例としてあげられるかもしれない。生活とは多面的であり、ある面では確かに楽しいが、ある面では汚らしく、ある面では辛いこともある。しかし、秩序だって教えられる「社会」とやらは多様な人達が暮らす社会と乖離せざるを得ないから、結局インフォーマルな伝達によって積み上げ式に伝えられるしかない。

 

 

さて、微妙に議論が霧散している。この文章でここまで言ってきた前提をもとに言いたいことを二つまとめよう。

 

まず、教育を考えることの本質的限界を自覚すべきであるという主張である。教育議論をする時にしばしば、自分が教育の話をしているのか社会の話をしているのか見失うことがある。あるいは自分を棚に上げて未来に無責任に期待した言説を披露することがある。「子どもが活発な社会は健全な社会である」という類の経験論があるが、まず間違いなく、子どもが活発な社会では大人もまた活発で前を向いている。というか大人が前を向く余裕がなければ、そもそも子作り、子育てなどという行為に至り得ない。社会は教育が、あるいは教育されてゆく将来の子どもが創り変えていくものではなくて、今社会を作る我々が創り変えていくものなのである。だからもし教育について本質的な議論をするのであれば、我々を取り巻く社会現象そのものについても合わせて真剣に議論しなくてはいけない。

 

次に、教育ポエムの批判可能性の再検討である。教育ポエムそれ自体には重要な価値が含まれている事も多い。教育が作るべき個人は、ただ現状の社会を受容し伝達していくマシーンではなく、そこで自分なりに生活し社会を考えていける個人である、ということは一応上述の議論を見ていると明らかになっているように思う。ここを目指して現状の教育を変えていく取り組みはやはり重要である。しかし、もう1つ重要なのはポエムをポエムとして処理しない、批判的思考と言論の枠組みづくりである。それはしばしば「哲学」と称される。ポエムはポエムであるがゆえに、現実的側面からどうしようもない形で否定されるか、議論を許さない素地によって語られる。これをきちんとした体系で整理し、あるいは行き過ぎにブレーキを掛けていく取り組みは重要であろう。ほっておくとすぐ、教育議論はロマンティックな方向に旅立つか、極端に近視眼的実用主義に拘泥してしまうし、いずれも「子ども」のことを考えていると思い込んでいて、教育と社会の話を混同し教育に一元化した話としてしまうのだから。

 

以上2点、どっかで聞いたような意見であった。このブログそのものがポエムであることは否定しないし、ポエムを語る場もやはり必要であるというのが投げやりな結論である。