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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

学問の世界に足を突っ込むことについて

大分このブログを放置してしまった。理由はいくつかある。例の道徳の特別の教科化の件に関してテレビを中心としたマスメディアの報道の仕方があまりにもひどすぎたからぶっ叩こうとしたが、「自分の知っていることを共有したいからこのブログを書いてるわけじゃない」と書くのが面倒になって挫折したり(ちなみに道徳の特別の教科化はについてはぜひこちらの資料群には目を通してから議論してほしい。道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議:文部科学省)、そもそもリアルで学問の世界に身投げしてしまって書く暇と気力が萎えてしまっていたりそんなところである。今回は、そんな自分の気力を萎えさせていた学問に身投げすることについて書いていきたい。まだ無知だからこんなことが書けるのである。

 

私は今、学問ごっこに興じている。教育学というごった煮学問の世界に飛び込んだつもりになっているわけだがやるべきことはなるほど多い。思わず魅入られて入院してしまう人が後をたたないのもわかる、麻薬的な面白さがある。私は特に、歴史に魅せられて傍から見たらくだらない資料群を発見しては奇声をあげそうになるのを必死に抑える努力を日々重ねている。なるほどわからん、という方も多いだろう。

 

人生において、学問に興味のない人の勉強の大半は教科書とそれの取り巻きで完結するに違いない。教科書には現時点での答えが書いてある。そしてちょっと調べてからもう一度教科書を読むとなるほど素晴らしくまとまっている。モノを少し知った感じになるにはあれ一冊で十分、というのもなるほど納得行く話である。

 

しかし、一度学問に魅せられてしまうと話が変わってくる。入り口は色々あるだろうが、学問に魅せられてしまうと「答え」には満足できなくなってくる。例えば世界史や政経の教科書に書いてある大まかな流れは流れなのだが本当にそうなのだろうかと、原典をあたってみたくなる。そしてあたってみるとたしかに流れはそうなのだが、もっといっそうわかった気になる。そして歴史上偉大と言われている人たち、ホッブズ、ロック、ルソー、カントやらなんやらが自分の前に生き生きと立ち現れてくる、ような気がしてくる。そして同時に底なし沼が見えてくる。ちょっと学問的に聞きかじった程度でも、教授の話をよく聞くようになると底なし沼がよく分かる(逆に知ってることも増えるから話の筋が非常につかみやすくなる)。一度学問世界への入り方がわかると目の前にうず高く「先行研究」が積み上がる。人類が積み上げた象牙の塔は遙かなる高みを持って卑しい私を見下ろしている。

 

ニュートンの巨人の肩に乗る小人の例えは有名だが、しっかりと巨人の肩の上に登って知の地平を見渡せるようになるには相当な鍛錬が必要なのだろう。この鍛錬が必要という点を自覚した上で象牙の塔を一歩一歩登っていくと、登ることを放棄してそこが頂上だと思いこんでわーわー喚く人が小さく見えるようになってくる。確かにもうちょっと引いてみてみると肩の上からモノを言っている人も、登りもせず、あるいは中途でわーわー喚いてる人も言っていることはだいたい一緒に見えるのだが、中から見ていると随分違うことがよくわかる。こんなことを言うのもわずかながらものがわかるようになった証拠かもしれない。私が最近、ブログを書こうとしては筆を折ってしまうのもだいたいここらへんが原因である。

 

私はこのブログを始めたときから、本当に自分が調べていることは書かないようにしようと心に決めている。自分が調べていることを書こうと思ったら論文テイストの語調でも何万字(どころの騒ぎではない)もの文字数が必要になるし、あるいはその記したことが検討不十分であることは自分自身で痛いほどわかるからである。直感的直情的に物事を記してわーわー喚けるのはそれが恥ずかしいことだとも思わない、門外漢なことに限る。現に大学教授だってたまに例え話などで門外漢なことに首を突っ込もうとして非常に重大な思い違いをし、学生の失笑を買っていることだって多い。それはそれで一向に構わないとは思うのだ。

 

ある物事を見る時に、少し本を読むとだいたい認識の枠組みがあることに気づかされる。教育に関する場合、卑近なところだとだいたい「実践学力観」と「知識重視学力観」の二元論で議論を処理できる。しかし、教育学は未熟な学問だから二元論で十分処理可能な側面があるだけで、多くの場合こんな簡単に説明できる枠組みはない。この枠組を何個持っているか、そしてその枠組をどれだけの種類、意識的に使い分けられるかがまさに学問的能力だと思うのだが、ここはまだ無知だから大言壮語できるところである。

 

とりあえず人文系学問をやるのだからと、西洋近代に手を出しアメリカプラグマティズムに手を出し、マルクスにも手を出した。手を出せば出すほど物事は沢山見えてくるが肝心の包丁を選んで切り刻んで深く理解するところまではいかない。ここがまだ未熟なところである。しかし、学問の世界に足を突っ込んだからこんなことも言えるようになった。もっと調べればスルメのように味が染み出てくるに違いないと日々、どこかの片隅で頭を抱えているし、あるいは誰かをこの沼に引き込みたいとやればやるほどムズムズしてくる。全く麻薬そのものである。