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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「上から目線の意見」という上から目線の批判について

雑記

ここ最近いろいろなネット言説をみながら少し思ったことがある。ネット上のお作法から少しはみ出た過激な意見に対してよくなされる「お前は何様だ」「上から目線に過ぎる」といった諸言説についてである。ここに書かれていることは恐らく色んな人が沢山焼き直してきたことであるし、あるいは全ての言説とはそういうものであろうが、とにかく言ってみたくてたまらない気持ちになったので少し記すことにする。ちなみに本稿では、標題のような言説を「お前何様だ」言説とでも名付けておこう。

 

「お前何様だ」言説については枚挙に暇がない。ネット上で最も酷い言説空間はYahooニュースコメントとYoutubeのコメント欄であると思うが、特にYoutubeのコメント欄でしばしばある「動画も投稿してないくせに」批判「自称名人様」批判等の応酬は一体どれだけ繰り返されてきたことかわからない。ある投稿者のプレイについて「下手くそ」と指摘したユーザーに対し別のユーザーが「自称名人乙」「お前がやってみろ」などと返すことはもはや様式美とさえ言える。そこで煽られたユーザーがイキりだしたりしてあるいは無知をさらけ出したり、揚げ足とりを始めたりするからコメント欄は手に負えなくなるのだが傍から眺めている分には非常に愉快である。

 

さて、私のブログ記事、特に延焼的にバズった以下の記事でも「お前何様だ」言説はしばしば見られた。

いや、この記事、「お前何様だ」と言いたくなる気分はすごくよく分かる。これを酒も入れず真面目くさった顔でいやみったらしく毎日話していたら相当やばいやつだ。しかしちょっとまってほしい。そんなやつに「お前何様だよ」と突っかかることに一体何のメリットがあるというのだろうか。あるいは日常的なコミュニケーションでそういう人にそういうテンションで突っかかっている人もまた、相当やばいやつだ。触らぬ神に祟りなし。

 

もう一つ、最近バズってるなぁと眺めていて「お前何様だ」言説を見かけた記事がある。

todai-umeet.com

この記事に対するレスポンスにも(記事内で閲覧できるもの以外にも多くある)「お前何様だ」言説が多く見受けられる。頼むから記事の日本語をきちんと読んでくれと思う意見も多い。

 

2つの記事に共通するのは読者を明らかに限定し、すべての人から共感を得ることではなく主観を吐露することを目的とした扇動的言説であるという点である。ほしいのは「上から目線のアドバイス」でも、ましてや「お前何様だ」コメントでもない。ささやかな同情と暖かな眼差し(言い換えれば自己承認欲求の充足)程度のものである。あるいはそれがわからない人には無視していただいて一向に構わない。せめて読んでいただくなら字義通りにとって「へ~大変なんだな」とか「こいつのことはよくわからんわほっとこ」くらいのレスポンスでいい。皆さん、日常的に、本音ぶちまけ型の言説にはこう対応なさっているはずである。「議論」したってそこに生産性は皆無であるのだから。

 

「上から目線」の主観的言説ほどスタンスが定まっている言説もない。書いている「私」を開示し、それへの承認を求めるだけの、言ってしまえばそういう言説である。確かに一般的な感覚から言えばそういう、欲求丸出しの言説はキモいしうざい、お固く言えば忌避感がある。日常的にそういうことをする人たちとはなるべく関わらないようにするかもしれない。だいたい欲求丸出しの言説には、自らとスタンスを異にする他者に対する配慮はない。だから欲求丸出しの言説が自らと同じスタンスから発せられれば感じ入ることができるが、違うところから突っ込まれるとむしろ自らのスタンスが攻撃されているような、一種の嫌悪感を覚えることも多い。リアルなら腫れ物扱いで終えるかもしれないが、ネット上だと突っかかりやすい。あるいは無人称の自己(≒匿名)という特殊性から相手に対して優位に立ったかのように錯覚し叩く。それだけのことなのだろう。(ただ例えば3大欲求に基づいた主観的言説は当然共感ばかり集められる。逆に言えば承認を受けやすい。リアル、ネット問わずこうした言説で溢れるのも無理からぬ話であろう)

 

前掲の記事にせよ、「建設的な議論」など露ほども求めていない(ように見える)のだが、もし「議論」とでも呼べる何かを主観的言説から立てるとすれば、主観、すなわち他者の価値観を理解し包摂する方策を考えることでしかないように思う。上から目線で、個人内の改善を促す方策を考えるのは、あまりにも無意味である。言い方を変えれば、異なる価値観の相手に対し自己の価値観に同化するように仕向けるのではなく、その価値観をどう理解すればいいか、あるいはどう包摂されていけばこういう人も幸せなのか考えるほうがよっぽど効果的である。価値観を文化に置き換えると少し遠大な話になるような感じもする。

 

というわけで少し遠大な風呂敷を広げてみよう。これはそのまま異文化の話にも応用できるのではないか。よくある言説のうちに「お前の文化より我々の文化のほうが優っている」などという全く不毛な言説がある。ハーバードスペンサーの社会進化論が拡大解釈され、科学主義とやらに言説が毒された結果であろうが、すぐ我々は優劣をつけたがり、競争して生み出されるべき価値と、根っから競争すべきでない価値を錯誤する。いや、正確に言えば客観の上において、わかりやすく言えば理論的フィクションとして、ヘーゲル的に2つの価値を対立させ、「止揚」を目指すことはあってもいいが、フィクションであるということを忘れ、現実の主観を含む価値を抑圧してはならない。主観を含む価値には、そのひとの生活があり、人生そのものが含まれる。わからなければほっとけばいいのだ。ほっとくことが「抑圧」につながらない限り。(などというと随分語弊がある気がする)

 

 

さて、強引に風呂敷をたたもう。随分多くの中身がこぼれた気がするが気にしない。私が言いたいことは、実は上述してきたことと関係しているようで関係していない。もちろん上述したことも言いたいことではあるのだがもっと言いたいことが他にある。すなわち、もっとみんな主観的言説に対して寛容になって、あるいはそういった言説をどんどんやっていきませんかということである。私からすれば、たまに目にするドロドロの自己承認欲求の塊的言説は見ていてとてもおもしろい。(逆に、迎合的メディアにありがちな、書き手がどこにいるのかわからない記事は死ぬほどつまらない。)そんなもの(=主観的言説)は飲み会の席で気心の知れた友人とするか、あるいはネット上で匿名で垂れ流すに限ると思うのだ。そして、ネットとはそういった「匿名」の利点を活かし、そういった言説を多数読み書きすることで深層的な経験を積む積極的な場でありうるのではないかという問いかけである。匿名とは仮の姿でありフィクションである。フィクションであるからいくらでもやり直せる。この提案、みなさんはどう思うだろうか?(早速迎合的メディアみたいな閉じ方をしてしまって、忸怩たる思いである。)