ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

千と千尋の神隠しとルソー ~なぜ湯婆婆は負けたのか

==今更だけどネタバレしかありません==

 

何がきっかけかわからないが一個前の記事がバズってしまって、過激になりがちな脳裏の落書きをそこはかとなくかきつくっているだけの本ブログが衆人環境であれこれ言われるのもなかなか愉快なものであるが、何分落書き、論理の破綻はご容赦頂きたい。

 

さて、流行りに乗った話であるが20日の金曜日に、金曜ロードショージブリの名作「千と千尋の神隠し」が放映された。もう10回以上見ているはずなのに毎回発見がある素晴らしい作品であるが、ようやくだいたい話がわかったと1人早合点している。となると話したくなるのがブログなんぞ書いてしまう自己承認欲求の権化の性分で今回は千と千尋の神隠しとルソーという切り口で話したい。なぜ湯婆婆は負けたのか、なぜカオナシは銭婆のもとで改心したのか等、様々な点をルソーの思想を元に整理する。

 

「ルソー」という、おそらく大半の人の頭のなかには「あー人間不平等起源論と社会契約論を書いたあいつね、世界史に出てきた!」程度の認識の人は、実は非常に偏屈で故に魅力的な人物である。彼の教育論(と呼ぶには些か憚れる)『エミール』も教採を受ける方や教育学に触れた方はご存知だろう。そして、彼の思想は間違いなく宮﨑駿という作り手に流入している。特に彼の「利己愛」と「自己愛」、文明や流行への痛切な風刺と逆説的な啓蒙思想は宮崎作品を見る上で非常に鋭いメスとなる。

 

ちなみに今回のルソーと絡めた話には私なんぞの未熟者では思いもつかない話なので元ネタが有る。先生が「いつかジブリと絡めてえなぁ」と言いながら諸般の事情からあえて絡めずに話されていた諸概念を元に自分なりに書いているだけである。参照すべき論文は文末に付したのでもしよろしければお読みいただきたい。

 

 

千と千尋の神隠しというテクスト

千と千尋の神隠しは、2001年、宮﨑駿監督作品としてお披露目された名作である。そのストーリーといい、美術的感性と言い、BGMといい、あらゆる意味で一級品の作品であり、宮﨑駿作品最大のヒット作でも有る。

 

本作に限らず宮﨑駿作品に通底する素晴らしい点は、それが対象年齢を選ばない点にある。老若男女すべての人が別の観点でテクストから別々の物語を引き出し楽しむことが出来る。優れたテクストからはいくつも物語を引き出しうると言われるが本作もご多分に漏れない。この内幾つかの物語を表すことで軽いテクストの紹介としよう。

 

千と千尋の神隠しというテクスト全体を通して見た時、最も重要な物語は「千尋」という10歳の女の子の成長物語である。車の後ろで不貞腐れながら新しい学校にあっかんべーをし、神域に入るときに子どもだけが感じうる言い知れぬ恐怖に戸惑い、河岸で泣いているときのか細い姿はまさに10歳の女の子と言った感じである。彼女はハクと出会い、この世界で生きていくすべを教えられる。彼女は勇気を振り絞り物語の歯車を押していく。幾つかの出来事をきっかけに彼女は成長し、顔つきも見違える。彼女はついに湯婆婆との戦いに勝ち両親を取り戻す。彼女は人より随分聡明で勇気もあるが、それもまた後述するように宮﨑駿の描きたかった世界なのだろう。

 

次に挙げるべきはハクの物語だろうか。ハクは名のある川の神であるが、湯婆婆に名を奪われ、「やばい仕事」をさせられている。彼は千尋へのプラトニックな思慕と千尋の言動に救われる。彼もまた、所謂銭ゲバな湯屋の人々とは一線を画すが、しかし彼は千尋ほど真っ直ぐではない。彼の「啓蒙」という文脈もこのテクストでは重要である。

 

3つ目に、間違いなくあげられるのは湯婆婆と銭婆の物語であろう。湯婆婆と銭婆とは一体どんな存在として描かれ、ゆえに物語にどう作用したのか、これを特に解き明かすためにジャン・ジャック・ルソーというメスが非常に有効である。この点は後述する。

 

4つ目にカオナシの物語である。なぜカオナシは千尋を求め、そしてついに銭婆のところに落ち着いたのだろうか。これもまた後述する。

 

それ以外にもリンの物語、お坊の物語など多くがこのテクストから引き出される。宮崎作品は特にテクストの引き出しが多いように思うのだ。しかしその原理は一貫し、そして悲劇ですらある。それをルソーというメスを元に探っていこうというのが本稿のささやかな狙いである。

 

ちなみに、千と千尋の神隠しを探る上で外してはならないモチーフが「名付け」に関するモチーフである。これはルソーとは関係ないが本作を語る上で外してはならない。考察の箇所で後述する。 

 

ジャン・ジャック・ルソーにおける利己愛と自己愛の諸概念

さて、何やら難しいタイトルを付けてしまった箇所に移ろう。皆さんの大半に歴史上の記号として刻印されているジャン・ジャック・ルソーという人に人性を付与し、テクスト解釈の線上に登場していただくとする。

 

ルソーは、1712年、スイスのジュネーブで生まれた。母親はルソーを産んだために死に、ルソーは生涯このことを悔やんだという。ルソーの父親は市民階級の時計師であったが、彼が13歳の時、暴力沙汰をおこして蒸発、ルソーも孤児同然の身として放浪することになる。彼はその生涯に渡って孤独であり続け、孤独であったがために洞察的であった。

 

彼は非常に多才であり、それゆえに様々な分野で研究がなされている。史上初の私小説と名高い『告白』、書簡体小説の傑作『新エロイーズ』、教育論(?)『エミール』、政治論『社会契約論』『人間不平等起源論』、文明批評として有名なものに『学問芸術論』等がある。また、作曲家としても活躍し、「むすんでひらいて」のメロディーは彼が作った戯曲を後年の作曲家がリスペクトして作曲したものが広まった派生系の一つで、それが各地で賛美歌や童謡、果ては軍隊行進曲として用いられている。

 

彼は後年、特に『エミール』でサヴォアの助任司祭の信仰告白を記したことからパリ大学神学部に断罪され亡命を余儀なくされる。彼は自らが引き受けた悲劇的な運命-すなわち耳を覆いたくなるような事実を語ること-によって迫害されることに対して強い被害妄想(というよりは満たされない自己承認欲求)を抱え、孤独に死んだ。彼はとても言行一致とは呼べない人で、口ではまさにそういった人の間に生まれる評判に身をやつさず、自然のもと素朴に生きよと問いたが、裏では過大な自己承認欲求を抱え、ジュネーブ訛り(田舎訛り)のフランス語には過大なコンプレックスを持ち、エミールで児童中心主義を唱えた(と言われている)割には5人の子どもを相次いで孤児院に放り込み、フィクショナルな『告白』という自白(自己正当化の為に作り上げた物語)の中で露出狂であることを暴露したりしている。この弱さこそが、ルソーの好みが別れる点でも有るが弱っちい私には大好物である。

 

 

さて、前置きが長くなった。ルソーにおける利己愛(amour-propre)と自己愛(amour de soi)の話に移ろう。随分古い論文であるが坂倉(1991),坂倉(1996)あたりを参考に記す。

 

ルソーにおける悲痛とも呼べる目標の一つが人間の本源的善性の証明であった。『エミール』の冒頭は次のようなフレーズから始まる。

 

万物をつくる者の手を離れるときすべてはよいものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる

-ルソー, J., 今野一雄訳(1762=1962),『エミール』,岩波文庫

 

従来、アウグスティヌス以降の西欧キリスト教世界において、聖書解釈における「原罪説」は一般的であった。すなわちアダムとイブが地上に放たれて以降我々は生得的に罰せられ、生とは死後の救いのための行いであるという思想である。ストリンドベリのフレーズで山本周五郎によって引用された「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」という語はこれを端的に表している。(ピューリタニズムの厳格主義にはこの傾向が強い)そしてこうした原罪説に基づく「性悪説」的観念が主流であったといえる。ルソーはここに疑問をいだいたのだ。

 

ルソーにおいて、人間の創り出す文明やそうした社会的な差異が生み出す流行や滑稽といった感情、あるいは、まさにそうした人為が創り出す利己愛こそが人間の本源的善性を曇らせ悪的なるものへと貶める元凶であるとされる。ルソーにおける利己愛(amour-propre)とは次のような定義を持つ(坂倉(1991)から二次引用しました。良くないね)

 

amour-propreは、相対的で人為的感情、社会の中で生まれる感情にほかならない。それは、各人に自分のことを他の誰よりも重んじるようにさせ、相互にあらゆる悪を思いつかせるものであり、また名誉の真の源泉である。

 

ルソーにおける利己愛とは、社会的な感情であり、虚栄心や名誉などを惹起する。利己愛とは他者と比べてどうだという相対的な感情であり、ゆえに本当は幸せなことでも人はそれを幸せだと思えなくなる。例えばとても暖かい服を寒いときに着れてそれ自体は幸せなことなはずなのに、それが例えばスタイルが良くないとかかっこ悪いとか言って高い金を流行に合わせて、それが実用的かどうかを度外視してお高いものを買ったりする。そうして他者と比較してそういう服を着ている自分につかの間の満足を覚える。翌年にはしかし、また欲しくなるのだ。これが利己愛である。

 

一方自己愛とは何か。自己愛(amour de soi)について、ルソーは以下のように述べる。(これまた二次引用)

 

amour de soi même は自然本性的感情であり、すべての動物を自己保存に配慮させ、人間にあっては、理性によって導かれ、憐れみによって変容されて、人類愛と徳とを生み出す。

 

すなわちルソーにおいて自己愛とは、「食べたい」とか「寝たい」とかいう自己保存的な自己愛であり、それが達せられるのは、例えば寒い、服着た、暖かい、満足という程度の思考プロセスによる。自己愛もまた広義の利己愛の一部であり、もし周りをキョロキョロとしてばかりいる人が他者に嫌われることを自己保存に重大な影響をおよぼすことだと考えて、そうされないように自らを取り繕い、一端の人物であるかのように見せようとすれば、それは傲慢や虚栄と言った負の感情、すなわち利己愛へと転化する。

 

ルソーの特に示唆的なところは、この時、「強さ」の定義として利己愛と自己愛の差を導入するところにある。彼いわく、人間の強さとは、利己愛と自己愛の差によって決まり、自らの出来ることと自らのしたいことの差が大きければ大きいほど人は弱く、逆にその差が小さければ小さいほど強いというのだ。そして彼は発達段階の一時期において、子どもが全能である瞬間、すなわち自らの出来ることがしたいことを上回ってしまう時期が来ることを見抜く。彼はそれが一時的なものであることに気づいているけれど、しかし、我々も思い返してみれば自分はなんでも出来たような、そんな錯覚に囚われた時期を持っていたことに気づくだろう。その時我々は今よりよっぽど虚栄心も、他者と比較してどうだという感情もなく、ただ実質に基づいて嫌だとかいいとか言っていたのではないか。これこそが千尋の少女像とつながる。(最近は発達段階がルソーの時と比べて明らかに前倒しになっているので正確な年齢層については言明できないが)

 

ルソーが『エミール』において表そうとした表層的な教育指針は、自律して人間の本源的善性に基づいて判断しうる自然人の育成というところにあった。すなわち変な虚栄や立場、しがらみに囚われず常に善なる判断を下しうる主体(ほぼすなわち神)の育成のためにエミールをあらわしたといえる。エミールの中で教育されるエミール少年は、全知全能の教師の手のひらの上で転がされながら、都会という、利己愛と自己愛の差を広げる作用を有する場でも戦いうる、強さを有した少年へとまさに教育される。その後ルソーはそれを壊してしまうし、それを壊すことでこそルソーはルソーたるのであるが、その話は置いておこう。ここで記すべきは利己愛と自己愛という概念とそれを取り巻く強さに関する概念で十分である。(ルソーは利己愛そのものを否定していたわけではない。この歴史的経緯を書くと本論から外れるので置いておこう)

 

・考察

さて、ようやくここにたどり着いた。利己愛と自己愛、それに強さという概念を導入すると千と千尋の神隠しというテクストはなかなか興味深く読めるのではないだろうか。

 

千尋という少女は、まさに人間の本源的善性(≒自然)に基づいて、すなわち実質に基づいて判断を下しうる、そんな少女だと捉えられるのではないだろうか。であるから彼女はお金にも過度に美味しそうな料理にも興味を示さず、しかし素朴な塩にぎりに涙した理由が見えてくるはずである。彼女は湯屋、今風に言えば巨大ソープランドで生きていくために働く。そこはまさに利己愛の巣窟であり、そこで働く人々はみなこれに毒される。人々はみな利己愛に基づいて生き、それゆえに本当のことが見えない。湯屋の人々は、「リン」と「釜爺」「ハク」「お坊」を除いて彼女を除け者にする。湯屋の人々の文脈では、千尋は周縁の人であり余所者であり、そして理解不能なのだ。そういう時代が彼らにもあったはずなのに。

 

リンは物語の中で、雨でできた海を千尋と眺めながらぼそっと呟く。「おれいつかあの街に行くんだ。こんなとこ絶対にやめてやる。」と。「あの街」とはリンにとって一体どこなのだろうか。私には、彼女がもはや忘れてしまった場所、すなわち「自然」に満ちた周辺に他ならないのようにおもう。リンは「大人」になりゆくなかで、徐々にそれを失う(あるいは失わされる)が一抹の憧憬という形での希望は有している。だからなんとなく千尋を放っておけなかったのかもしれない。

 

湯婆婆と銭婆にも興味深い関係性が見て取れる。銭婆は、千尋が訪れる場面で次のような興味深いセリフをつぶやく。「あたしたち二人で一人前なのに気が合わなくてねぇ。ほら、あの人ハイカラじゃないじゃない?」と。

 

ハイカラとは何か。それは湯婆婆がまさに彼女たち双子の利己愛的側面を有しているというオマージュではないか。確かに湯婆婆はネズミに変えられたお坊を見てもお坊と気づけず、ただの土塊だったカオナシの出した金を見ても金と気づけなかった。銭婆は忘れ去られた「沼の底」でひっそりと暮らす。心の沼の底で忘れ去られた子どもの時の善性はもはや取り戻せない。湯屋(=表の世界)は湯婆婆(=利己愛の化身)によって支配され銭婆はまるで悪者のように扱われる。湯婆婆と銭婆の物語はこのように解釈できないだろうか。

 

カオナシにしてもそうである。カオナシはいつまでたっても満たされないルソー的に本当に弱い存在である。彼は見てくれを整えた金でもなんでも出せる。しかし、彼は充足感を得られない。彼は快楽に溺れてみても乾きは止まらない。そして彼は千尋という少女、すなわちそうした見てくれに興味を示さない、自らでは手に入らない価値を見つける。しかし千尋はそういうカオナシの本質的な空虚さがわかるから鋭く拒絶し、本当の彼を吐き出させようと苦団子を飲ませる。カオナシはみるみる弱り、ぼーっと沼の底へついていく。カオナシは沼の底の銭婆のところに行き着き、そこで落ち着く。なぜならそこは彼にとって即時的な見てくれの感情ではない、本質的な愛情と充足に満ちた場であったのだから。

 

お坊という存在もこの線上で解釈できる。お坊は最初次のようにつぶやき千尋を連れ込もうとする。「おんもにはわるいばいきんしかいないんだぞ。」と。お坊は外を知らない。湯婆婆はお坊を溺愛するあまり、彼に外の世界の美しさを教えず、お坊もそうと信じ込む。お坊のような子どもはあなたの周りにはいないだろうか。お坊はそれでも千尋につれられて見た外の世界の美しさに心開かれるが、若くしてすでに所有する喜びを覚え欲望にとらわれて本質的に生きられない、そんな子どもを。幼少期に親と外で遊ばず転ばぬ先の杖を施され、過保護を受けた結果、小学校の体育で転び方すら知らず頭から地面に突っ込む子どももいるとさえ聞く。

 

千尋は強い。そしてそう判断することを厭わない勇気を物語を通じて手に入れた。であるから最後、まやかしの問答では間違えない。湯婆婆は敗北し千尋は去る。ハクは千尋と出会うことで昔、強かった昔を思い出しそして名を思い出すことで自我を取り戻す。彼は悲劇を免れないが、彼は幸福を得る。そしてまさにこうして物語は閉じていく。

 

個人的に最も興味深い描写は、釜爺が千尋に切符を渡すシーンであろう。一連の会話が脳裏に蘇る。

「リン:電車の切符じゃん、どこで手に入れたんだこんなの。
釜爺:四十年前の使い残りじゃ。いいか、電車で六つ目の沼の底という駅だ。
(中略)
釜爺 間違えるなよ。昔は戻りの電車があったんだが、近頃は行きっぱなしだ。」

 

リンがどこで手に入れたんだこんなのということ、それはすなわちもう手に入らないことを意味する。そして40年前の使い残りであり、昔は戻りの電車があったということは昔は都会(無機質で利己愛に満ちた世界)と地方(自然に溢れ実質的な愛に満ちた世界)との間に行き来があったが近頃はそれもないこと、すなわち地方が消滅し、地方的な感情(オールウェイズ三丁目の夕日に描かれるようなそれ)が消滅しつつあることを示す。電車は虚構のそうした感情を探すもはやこの世のものではない御霊を乗せてさまようだけの片道の存在になってしまっている。釜爺はとうの昔にその感情を失っていたが、老い、子どもに帰るにあたってもしかしたらその感情を思い出したのかもしれない。宮﨑駿らしい現代批評であるといえる。

 

 

宮﨑駿の思想を概観すると、そこにはまさにルソー的な文明批評精神が通底することに気づかされる。そしてそれが失われてゆく現代にあって、彼がそれを守ろうと現実でもあるいは創作においても努力している姿がありありと見て取れる。彼もルソーも、稀代の偏屈者であり、ロマンチストであり、自己の矛盾に苦しむ人間であるという点も興味深い。現代に宮﨑駿やルソーの憧憬は如何に現出できるのだろうか。それに飢え、仮初の紐帯の中に自己を落とし込んで他者を排斥しようとする運動と、逆にそれを仮初であると断罪したまま一向に次の世界を描こうとしない運動の間にあって、我々は常に考えていかねばならない。

 

 

P.S.

名付けについて少しだけ触れる。名付けとは所有であるとはよく言われることである。名を奪うこと、そして名を与えること(所謂源氏名であろうが)はまさに千尋を湯婆婆が商品として所有したということに他ならない。名は体を表すという。名とは所詮表層的なものであるが、しかしやがて表層にあったイメージは深層に溶け込み抜けがたいしがらみを作り上げる。湯婆婆は真名という自己を隠すことで仮初に支配された湯屋という王国を支配し続けてきたのだろう。ただ1人「获」野千尋を除いては。

 

参考

セリフは以下

http://www.mnr.jp/ghibli/senword/s1.html

レポートは以下2本

・坂倉裕治(1991),「ルソーにおける<amour-propre>ルソー教育思想の構造理解のために」,慶應義塾大学社会学研究科『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要 』(31), p151-158, 1991 


・坂倉裕治(1996),「ルソーにおける利己的情念と「人間の本源的善性」論」,『教育哲学研究』 (73), 51-64, 1996