ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

早稲田大学文科省官僚天下り問題と学の独立

普段から早稲田大学について書いている私にはワクワク(?)するようなニュースが飛び込んできた。本学教授に文科省天下り官僚がいたという話である。何をいまs(略)

 

 

ニュースに関しては以下あたりを参照してほしい。


バレバレであるし匿名とも思えないので明かすと、件の教授は早稲田大学政治経済学術院並びに大学総合研究センター所属の吉田大輔先生である。

http://researchers.waseda.jp/profile/ja.994345f134ed57e0280ce85d55eef2af.html

上記リンクに先生の担当されている講義も上がっているが、「著作権」絡みのものを2つ担当されているようだ。春学期は週1コマ、秋学期は前半が週3コマ、後半が1コマ、授業数から見るに「大学総合研究センター」の仕事が主である(らしい)。

 

さて、この大学総合研究センターというところは一体どういうところなのだろうか。

https://www.waseda.jp/inst/ches/

詳しくは上記の公式サイトを見ていただければいいが、かいつまんで説明すると「大学の理念(存在意義、役割、高等教育のあり方)を常に考究するとともに、大学のあるべき将来の姿をデザインし、実践できる体制を全学的な視点で整備する必要」から2014年2月に設置された組織であるらしい。業務内容としては、「本学の教育、研究、経営の質的向上に資する自律的・持続的な大学改革を推進するために、大学の理念に基づき、高等教育に関する研究および授業方法の企画・開発・普及促進とその実践を支援すること」、「教育、研究、経営に係る諸活動による成果を広く世界へ発信すること」であるという。

 

たくさんやっていることがあるようだが、早大生に身近なところでは「WSpaceの活用」や「オンデマンド授業などICTの普及」、その他で重要なところだと入試関連だったり、早稲田の社会的地位に関するベンチマークだったりだろうか。WasedaVision150(爆笑)のためのお抱え組織といった感じである。ちなみに吉田先生のご功績を確認させていただこうとサイト内を検索してみたがあまり引っかからなかった。ウケる。教育学部所属の神尾先生やら吉田文先生やらはお忙しいはずなのに沢山活動の様子が見て取れる。ウケる。

 

ちなみに、吉田先生が現役官僚であった時代には、まあ概して「大学改革」=もっと社会に出てから役立つような「勉強」を大学にさせようという取り組みと「スーパーグローバル大学の推進」あたりをなさっていたらしい。どこかのW大学の描かれる未来像とそっくりである。めっちゃウケる。まあコネ作りという意味では適任であろう。

 

 

さて、冗談は置いておいて、早稲田大学文部科学省の官僚を受け入れる理由とはなんだろうか。早稲田の2015年度決算書類を見ると、教育活動収入の総額は決算段階で976億円あまり、内700億円あまりが授業料等学生納入金と受験料などで、補助金は112億円あまりとなっている。教育活動収入の実に10%が言ってしまえば税金で賄われている形と言える。

参考:

https://www.waseda.jp/top/about/work/organizations/financial-affairs/financial-statements

ちなみに支出は人件費と教育研究経費にその大半が費やされている。このような状況でもし、お国からの補助金を締め上げられれば早稲田はたちまちその規模を縮小するしかなくなる。文科省の文教政策に迎合しながら適切に補助金を獲得し、お国が作る「新しい社会」とやらに迎合して学生を多数獲得することこそ大学の生き残りのためには必要なのであろう。「学の独立」の欠片も感じない素晴らしいロジックである。

 

補足しておけば、例えば補助金ゼロで大学運営をしていこうと思うと、単純計算で学費を現在の1.2倍にすればいいらしい。私なんかは年収毎に学費に傾斜をつければ1.2倍位回収出来るとしか思えないのだが、恐らく難しいのだろう。文科省とのパイプづくりのためにも天下り官僚の雇用は「必要経費」であったに違いない。

 

 

 

早稲田大学は、老侯大隈重信の意志を継ぎ、「学の独立」をその第一に掲げて1882年、開校された東京専門学校をその前身とする。早逝の天才小野梓は開校の挨拶で、「一国の独立は国民の独立を基礎とし、国民の独立はその精神の独立に根ざす。そして国民精神の独立は、実に学問の独立による。ゆえに、国の独立のためには民を、民の独立のためにはその精神を、そして精神の独立のためにはまず何よりも学問を独立させなければならない」と延べ早稲田の杜の歴史は始まった。世に名高い「学の独立」の思想は2つ、一つは「政治権力からの独立」でありもう一つは「外国語に頼り切った専門研究姿勢からの独立=母国語教育の推進」によって構成される。当時の「大学」すなわち東京帝国大学に対抗する形で、文理に渡る総合的な学問の場として開かれたのが早稲田である。

 

建学から135年が過ぎた。早稲田は、随分前から体制寄りと名高い大学である。「学」は独立せず、狭隘なる社会のための「実益」とやらしか求めない大学となって久しい。国に寄っかからず、自らの足で立って自らの志す教育を行おうとする姿勢は残念ながら伺えない。鎌田総長は挨拶の中で「学生目線で」などと言うが学生の方など全く見ていないことは明白である。少なくとも気概は感じない。

 

教育活動において肝に銘じるべきは、将来のために今を抑圧する教育は、それがどんな形であれ批判を免れ得ないという点にある。日本の大学生は勉強しないという。特に文系は将来役に立たない教育効果の低い授業ばかり受け、社会の役に立たない、クズのような年月を過ごしているという。しかし、学ぼうと思えば、その学びの方向性は明らかに限定されようとしている。「面白い授業」は「先進的な授業」「新しい授業」に読み替えられ、学生が本当に何を学びたくて、何に面白さを感じているのか、数字ばかり見て実際の学生の顔など全く見ていない。

 

私が今期、最も興味深かった授業は、先生が15分遅れてきてプリントを配り板書をほぼとらず滔々と1時間ばかし講義をする授業だった。ティーチングアワードなどというご大層な賞を受賞する「ICTの活用(笑)」をした授業やら少人数グループワークの授業は学びたい内容によっては鬱陶しいばかりである。高校の英語レベルでしかないゴミの掃き溜めのような英語の授業にしてもそうだ。出席が重視されるあまり先生は内容もない回を何回も作ったり学生のディスカッションという「楽」な手段に逃げ込み、授業する方もうける方も双方全く得をしない授業ばかりである。

 

早稲田は教授に英語で授業をしろという。しかし先生方のお世辞にもうまいとはいえない定型文の英語で授業がなされたところで、もし私が留学生なら受講しないに違いない。国教の一部では、先生の英語が下手すぎて留学生が寄り付かず、日本人の先生が日本人の学生に対して下手くそな英語で授業をしているとさえ聞く。見栄と数字ばかり気にする大学は本当のところを全く見てはいない。

 

 

早稲田は、講義録により生計を立てなくなってからこの方、一貫して見栄ばかり気にする国立の従属大学でしかなくなっている。なら学費の安い国立でいいに決まっているのだ。無論気概のある教授はいて、早稲田文化を継承する学生もいる。しかし教授の思想は間違いなく統制され、早稲田文化も望まれる一部ばかりが偏重される。それでも早稲田は日本1の私大であるし、やり直そうと思えばいつでもやり直せるはずなのだ。

 

 

今回の天下りをなさった先生が、もし教育学部で教育行政や高等教育に関する授業を積極的に展開し、「天下り笑」などと嘲笑えないくらい気概に溢れ活動なさっているのであれば私はここまで批判しなかっただろう。もし上記のような話をするなら吉田先生ほどの適任はいないだろうし、それが天下りだなんだと批判されようが需給がマッチしただけの話であって優秀な人材を雇用した早稲田の判断も案外悪くないと思うかもしれない。しかし、内実は伴わない。言ってしまえば大学当局は「経費」だと思って社会に甘えたわけである。

 

形骸化しているとは言えこの件は「恥」以外の何物でもない。この件で早稲田が失うブランドイメージは大きい。取り戻すにはいったいいくらかかるかわからない。そういうほんとうの意味でのリスクマネジメントが出来ていない連中が学内政治を行うなら本学に未来はない。もう一度頭を冷やして考えて見てほしい。早稲田大学とは一体どういうところで誰に向けて何を提供する/してきた場なのだろうか。決して「グローバルリーダー」などではないはずだ。

 

 

追記(1月20日)

吉田教授が退官なさり、鎌田総長が釈明会見をしたらしい。


曰く

>>「高等教育行政に関する高い知見と研究業績があり、本学の教授にふさわしいと判断し、採用を決定した」

なら高等教育行政の授業を開講させて本学の学生にその知見とやらを伝授させればいい。

 

>>「文科省人事課から「教員としての採用は再就職等規制に抵触しない」「早稲田大学における正規の採用手続きが文科省退職後に開始されたものであれば問題ない」という見解が示されたため、元局長の退職後に採用を進めた」

専門外なのだろうけど「法学部」出身の総長先生、謗りは免れまい。

 

苦しすぎる言い訳であるが、スクラップ・アンド・ビルドのいい機会ではないか。確かに官僚出身者は出身者なりに独自の知見をもち、ロジックを持ち、そうした先生方から習うことでまた一つ多様な見方が可能になるだろうから雇用をやめろという気はない(私が習っている先生にもお一人素晴らしい授業をなさる先生がいらっしゃる)が、それなら相応の働きを求めるべきだろう。「学の独立」は、政治癒着の読み替えであってはならないが、「反体制」の読み替えであってもならない。