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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

『この世界の片隅に』考

=ほとんど公式紹介以上のネタバレを含みません=

 

素晴らしい作品であった。表現技法の真新しさ、ストーリーの構成、音楽、声優の演技の質に至るまであらゆる点が素晴らしかった。特に呉に空爆が来て、空に絵の具がぽつぽつと落ちていくように表現するシーンや白波をうさぎと例える幼心の会話を描き出すシーンなど、「絵」を依り枝にして情景を、心情を描き出す技法は圧巻の一言である。もう一つ、特筆するとすれば、のん(能年玲奈)の演技も素晴らしかった。様々な声優を含む「声」による演技を見聞きしてきたがおよそあれ以上のものは見たことがない。

 

私は昔から、徹頭徹尾の悪者がいる作品が嫌いで、突き詰めれば誰も悪くない、そんな作品が大好きである。私は性善説に生きたがるし、徹頭徹尾の悪どさにリアリティは感じない。無論、大小の悪意は物語にリアリティを付与するが、行き過ぎた抽象的な悪者的キャラ付けは見ていて愉快なものではない。それを「きちんと」見て楽しもうとする場合は、特にそうである。(一方何も考えずにわいわい楽しめるハリウッド映画も案外好きであるが、それは作品鑑賞とは別種の娯楽である。)『この世界の片隅に』に悪者は1人もいなかった。

 

 

この世界の片隅に』には、日常を描くというテーマのもといくつもの物語が含まれる。それは恋の物語であり、すずの成長の物語であり、あるいは彼女を取り巻く人々それぞれの物語であり、広島や呉という場の物語であり、大日本帝国という国家のその終末の物語である。戦争モノ、原爆モノにありがちなあからさまな社会問題の描かれ方はしない。パターナリズムに、全体主義に、戦争という悲惨に、この作品は直接的にはフォーカスしない。その視点にある特定のイデオロギーは認められない。もちろんそれが在ったことであればそれは描かれる。しかし判断はされない。それがこの作品の真新しさである。

 

この作品は、ある破綻を、膨らみ爆ぜる社会心情とそこに生きる日常を描いている。我々は起こったことを記号的には理解している。16年12月8日開戦、20年4月7日大和沈没、同8月6日広島原爆投下、同8月15日終戦というように。作品は既知の記号を我々に提示しながら、そこに日常性を付与していく。イデオロギーに支配されない、なるべく「生」であろうと心がけられた日常をである。

 

主人公のすずという女性は、ぼーっとした、主体性のない、絵の上手な子である。彼女は描かれがちな「派手」な女性でも「活動的」な女性でも、取り立てて悲惨な経験をした目立つ女性でもない。彼女の人生という物語に、つとめて選ばれて描かれ、語り継がれる起伏はない。何故ならそれがありふれているからであり、であるからこそ描かれるべきであった女性である。全ての人は、一生に一編、人生という物語を編みうるとされる。彼女のそれは当たり前であったが、70年前の当たり前は今の当たり前ではないのだ。

 

私はすずという女の子に、私の曾祖母を重ね合わせる。高祖父は入市被爆で死亡し曽祖父はフィリピンで戦死した。横川にあった家は爆風で吹き飛ばされ女手一つで2人の子どもを育て上げた。曾祖母は戦争という一大事をどう思っていたのだろう。終生曾祖母はそれを話したがらなかったし、私が10歳かそこらのときに亡くなってしまったからもはや知る由もない。彼女は編み物が上手で、それを娘である私の大叔母に伝授した。大叔母が母親のために作ったマフラーを、様々あって今私が使っている。あるいは彼女が生の最後を過ごした部屋に、私は広島にある母方の実家を訪れるたびに寝泊まりしている。彼女が生きていたということを私に伝える寄辺は、墓に刻まれた戒名とか系図上の血のつながり以外にも、僅かに実感をもって曾孫の私にも残されている。だからより一層この作品は私に響いてきた。

 

私はこの作品から、あからさまなメッセージを論おうとは全く思わない。終戦の時、すずが吐露する感情にも、あるいはすずを支える愛情の数々にあっても、生への真っ直ぐな思想についても、それは鑑賞する我々に染み込むが、あえて論おうとは思わない。そして私はそうあることがいくらか自然な感情であるように思う。

 

 

なぜ論おうとは思わないのか、という議論を進めてこの考を終えよう。

 

あらゆる社会問題とそれに抗おうとする社会運動は、我々がある共同体で生きている限りにおいて鋭利過ぎると私は考える。思想を持つということは、選択することに他ならず、選択とは他を排斥することに他ならない。主体的であるということは残酷であり、重荷であり、そして主体的であれというメッセージは時として我々にとって厳しく、そして無責任である。主体性を持った個人は当然他者と衝突するし、わかりにくいミクロな衝突をマクロな衝突に置き換えた、暴力を伴わない喧嘩が社会運動である。大人に、社会の成員たる成人に、容易な変節は認められないから、思想を持つこと、選択すること、主体的であることが強要され、相違する他者と衝突することが宿命づけられる。仕方ないことなのだろうが、善性を信頼したぬるま湯から夢想するとすれば、こうした問いかけは鋭すぎると私は思う。

 

日々考えていることであるが、選択とは前向きな所作では在りえないと思う。そうせざるを得ないと追い込まれた何がしかの状況で仕方なくすべきことであろう。しかし、選択とはしなくてはならないときにあって、「正しいもの」「善いもの」を選び取るべき所作であり、そうであるために、我々は、我々に染み込み我々を動かす何がしかの規範(とそれを裏打ちする経験)を用いる。その規範とは、まさに我々に内面化されているような、つとめて論うべきではない(明示的に選択されていない)、日常という経験の質と量に裏打ちされるに違いない。だからこそ、そういう経験として入り込む『この世界の片隅に』という一つのまとまりとしてのテクストと、そのメッセージを論おうとは思わない。価値の選択を迫られていないテクストを論ずるという形で選択することを私は望まない。

 

私は無粋な文章しか書けないから、論理で切り刻めない物をそういう物として描くことが極めて苦手である。ただ、だからこそこういう作品を待っていた。あるいは承認欲求というお化けが選択の恐怖を打ち消してしまう弱い人間であるから思想を表明している。これを書いている時点で上述の所感との矛盾が解消しきれていないのは事実であろうが、幾分未熟ゆえお許し頂きたい。

 

この世界の片隅に』は素晴らしい作品であった。この一事だけを伝えたくて、ただ一文で表明する勇気を持てず乱文を記した次第である。