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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

給付型奨学金を考える -上西小百合議員の発言を受けて

Twitterで発された1人の議員の発言が燃えている。無所属の上西小百合議員の給付型奨学金に関する発言である。教育学をかじる無学の徒からすれば彼女の発言も、あるいはそれに反射的に反論し炎上させているTwitter民の反応も同様に物足りない。お互いそもそも論点がずれてしまっている。本稿では教育学的知見に基づいてこれを確かめたい。

 

まず上西議員の一連の発言をおさらいしよう。

 

 

 

 

 

 

 

結論から言えば、上西議員の言い分は聞くべき所は十二分にある主張であるし、反射的に正義感に駆られてやっつけにかかっている人たちは論点のズレをきちんと認識した方がいい。ただ上西議員の発言は本末を転倒している。「理想を言えばそうだが現実的でない」というよくあるやつだ。

 

冷静になって整理しよう。上西議員が給付型奨学金に反対する理由を言葉足らずの部分を補って難しく考えれば、本来大学教育が全く必要がない人たちが「学歴」という社会通念上の虚構の価値を求めて、社会通念故に進学することに反対であり、社会通念に支配され主体性を持たない人たちにわざわざ給付型奨学金というコストを掛ける必要はない、というより給付型奨学金は結局、それが更なる競争を煽ることで学校外教育(塾etc)の重要性を煽る結果にならざるを得ず、それゆえに教育の機会均等を補償する制度とはならない、あるいは「学歴至上主義」という社会通念を更に強化し教育格差を拡大する制度となってしまうだろう、という指摘であろう。なるほど教育学徒としては大手を振って賛同したくなる素晴らしい議論である。(これについては後ほど補足する)

 

なぜ論点がずれているかと指摘したかといえば、上西議員の議論はあくまで原則論に基づいた議論であるし、それを本人も認識しているのに原則論に基づいた反論がほぼ見受けられないという点である。私から言わせれば随分上西議員は「教育」という作為を理想的に過ぎる捉え方で捉えているし、学校教育と教育の区別を名付けのレベルでは付けられていない(観念のレベルではつけている)ように見受けられる。また、自己責任論の無責任さについて一切考慮していない。とりあえず以下で検証していこう。

 

・大学進学は冷静に考えれば間違いなく得

まず日本が如何に学歴社会かということから確認していこう。

厚生労働省の「平成24年賃金構造基本統計調査」によれば、学歴及び性差によって如実な賃金格差があることが浮き彫りになっている。

www.nenshuu.net

上記のサイトがビジュアル的に見やすいので参照するとよいだろう。

 

「日本が学歴社会でなくなってきた」等という戯言を一体どの層が垂れ流しているのか知らないが日本社会は厳然たる学歴社会であり、概ね高卒より大卒が、大卒でもより「高偏差値」の大学を卒業したほうが生涯年収は高くなる。その差はあまりにも顕著であり、生涯年収ベースで5000万円以上差が出てくる。大学進学に係る諸経費が医学部等特殊な学部を除けば私立理系でも720万円程度。もちろん入学のための塾費用なども係るし追加で最低4年間も子どもを1人養わねばならないのだから相当額かかるだろうがとても5000万円に到達するとは思えない。損得計算で考えれば大学進学は個々人にとって間違いなく得である。

kodomo-ouen.com

 

学問に基づいてと言ってしまったので、個人の教育投資は間違いなく得であるとする論拠をもう一つ。教育社会学者のサロウによれば、職業競争的な価値観、すなわちパイは限られていてそれを人々が取り合うという価値観によれば、学歴は個人の「市場のシェア」を維持するのに必要な防衛的支出となるという主張である。マーティントロウ(1976)の教育大衆化議論に拠れば、被教育人口のうち同年代の15%が高等教育段階に進学した時、その段階は「マス段階」に移行したとする。教育社会学者の竹内洋(2011)によれば、日本においては1964年に4年制大学がマス段階に移行した。学士様が末は博士か大臣かと言われていた時代は遠く昔に過ぎ去り、大学に行くことが当たり前になれば、それを当然とする人たちの間で競争せざるを得なくなり、限られたパイを取り合うために現状維持するためであっても高学歴を志向せざるを得ない。現代は頭打ちの状況とは言え大学進学が当たり前の社会である。やはりもし高い職業的地位、給与を得たかったら大学に行くべきであろう。

 

ともかく、これだけ顕著な賃金格差があるのだから、大学入学はその後の生活にとって死活問題であり、もし家庭の経済状況によって大学進学の道が閉ざされるならば貧困は再生産されるばかりである。だから給付型奨学金を充実させ就学機会の均等化を図り貧困の源泉をせき止める必要がある、というのが超大雑把に言って給付型奨学金普及の論理である。

 

・なぜ学歴で賃金格差が生まれるか

なぜ学歴によって賃金格差が生まれるのであろうか。高学歴者の方が低学歴者より何らかの側面で優位であるから格差が生まれると考えた方が自然であろう。

 

教育が社会に及ぼす影響について実証的な考察を元に描き出すことを目的とした教育社会学は、教育格差や学歴社会といった問題について非常に多くのリソースを割いて研究を行ってきた。それら全ての議論を包括的におい学歴社会そのものの問題を言い当てることは私程度の薄学ではとても出来ないのでほんの触りだけで勘弁してほしい。

 

さて、まず高学歴者と低学歴者を大企業担当者が迎えた時、ほぼ確実に高学歴者が採用されるだろう。ソニーの学歴不問採用の経歴がこの例を如実に現している。

www.j-cast.com

 

なかなかわかりやすい記事である。ではなぜ高学歴者ばかり採用されたのか。次のような理由が考えられる。

・話し方や態度が採用基準を満たしていた

・専門知識や英会話能力など単純に実力が秀でていた

・採用担当者と同じ教育体験、ひいては文化のもとに生きていたetc

 

一つ目については、バジルバーンステインの高名な言語コード論の研究がある。誤解を恐れず言えば、中産階級の家庭では、日常的に精密コード-文法構造が複雑で語彙が多い発話コード-と限定コード-曖昧な指示語等を中心とした文法構造が単純で語彙が少ない発話コード-が両方とも使用され、労働者階級の家庭では限定コードのみが使用されるという。精密コードはそれを解しうる個人同士であればより精密なコミュニケーションが可能だが煩雑、限定コードはある程度暗黙の了解がある間柄であれば精密コードより遥かに簡潔に意思を疎通しうるが、全くの他者との意思疎通には向かない。学校教育は精密コードを用いて行われる。精密コードを十分に用いうる中産階級の子弟は学校教育に適合しやすく、労働者階級を始めとする下層階級の子弟は適合しにくいという研究だ。

 

学校教育による格差再生産構造は後ほど話すとして、すなわちきちんとした学校教育を受けた子弟は彼らの間で当然として使用される言語コードを自在に使いうる。であるから高学歴者のほうが低学歴者より就活において優位であるというのだ。イギリスなど読んでいる新聞で階級が分かると言われるほど顕在的では無いが、日本でも例えば敬語の使い方の水準や会話の話題一つとっても生まれた家庭、育った階層によって全く質的に異なったものとなるだろう。まずまず自然な議論であろうと思う。

 

次に「実力が秀でていた」かどうかについて。カラベルのコミュニティ・カレッジに関する研究に拠れば、あるいはコールマンやジェックスによる実証研究に拠れば、教育支出と初中等教育段階における知的能力の発達に有為な関係は見られず、高等教育段階でいきなりここに差異がつかないだろうとする知見がある。「大学は職業教育を行う場である」等という非常に古めかしい観念を取り払ってみれば、今の日本の大学、それも文系の各学部に各人の職業的能力を高める力がないことは明白であり、この点はある意味否定される。それどころか、コリンズ(1980)によれば、「最小限の勉強で、よい成績をかすめ取ろう」とする学生文化を基調とする学校という組織は労働技能の訓練方法として極めて質が悪いとする。私的には人の社会化、社会的自立を達成することこそ結果論的な教育の目的であるとすれば、遅かれ早かれ学校的組織(他者との関係の中で他者と競争し協調しながら過ごす組織)に帰着せざるをえないからコリンズの議論は疑念の余地があると思うが、とりあえず置いておこう。

 

しかし、大学にはそもそも知的能力が高いものが通う、高偏差値大学においてはなおのことである、という事実を見落としてはならない。いつの時代もそうであるが、ある分野に特化した所謂「プロフェッショナル」の需要はそんなに多くない。所謂庶民はそれが昔農民であり、今がサラリーマンであるだけで、特別な能力を持たない有象無象の集団である。であれば膨大な数の彼らを選抜するのに、第三次産業において不可欠な知的能力-端的に言えば頭の良さ-を元にしようとするのは自然であろう。大学を含めた大きな学校教育という制度全体が「ふるい」に過ぎないと捉えることもあるときには重要であろうと思う。

 

最後に、「文化が一緒」という点について。すなわち、高学歴者は高学歴者だけが共有する文化的体験を有していて、類は友を呼ぶよろしく、高学歴者が自分と同じ文化を有する個人を採用したがるから高学歴者の多い大企業は高学歴者ばかり採用し、結果的に賃金格差が生まれるという説明だ。(確かサミュエルボーンズの説明だった気がするが違う気がすごくする)

 

この指摘は極めて本源的な問題を指摘する。ここで一つ極めて重要な問題を提起したい。近年のインクルーシブ教育の取り組みを別にして、皆さんは「別の階級」の学生と交わったことがあるだろうか。私は敢て日本社会が階級化しつつあるという指摘を容れて階級と表現したが、言い直せば、皆さんは異文化の学生と過ごしたことがあるだろうか。

 

私は何もここで国籍の違う学生と共に過ごしたことがあるかとか、障害をもった人々と共に生活したことがあるかなどと問うているわけではない。もっと卑近に、例えば本当に貧しい家庭で育ち進学など思いもつかぬという子どもたちと、あるいは所謂ヤンキーと呼ばれろくに学校にもいかず暴れまわっている子どもたちと、あるいは都会生活を知らない本当の田舎の子どもたちと共に教育を受けた経験があるだろうか。

 

我々は普通にしていれば、日本で教育を受ける限りこうした別の文化に生きる学生と交わらない。高偏差値大学に限って言えば、近年失われつつある地域多様性の問題と合わせて、裕福な家庭に生まれ不自由なく進学校に進み、当然のように大学進学を決定し(ここでキャリア選択のプロセスは存在しない)卒業してきた彼らは当然のように大企業に就職する。敷かれたレールにはいくつも落とし穴がありもちろん多くがドロップアウトするが、それでも大きく見れば、そこまで重大な生活文化の変化を伴うようなドロップアウトではない。「普通」ばかり見ていれば我々は他の人々のことがわからない。もちろん理解する努力は必要だろうが、一緒に働いていく上で不必要な配慮はしたくないし、あるいはそれをコストと感じることは当然といえば当然であろう。かくして異文化は拒絶され高学歴者ばかり選抜されることになる。

 

以上であらかた高学歴者が優遇される理由は辿っただろう。

 

・学校教育に潜む根深い問題と自己責任論の無責任

学校教育の目的は「社会的に自立した成人を創る」ことである。社会的に自立するとはすなわち経済的にも精神的にも親離れして独り立ちし、子孫を作り次の世代に社会を繋いでいくことにほかならない。近代以降の社会において、経済的に自立するためには読み書き算数に留まらない多くの能力が必要とされるようになった。それまで文字が読めなくても、初歩的な算数ができなくても先祖代々の土地を受け継ぎそれを当然のものとして捉え目の前の生きるための「労働」に従事すれば人々は生きていけた。しかし産業革命を、次いで第二次産業革命を転機として「普通」の人々にはより多くが求められるようになっていった。こうした需要に伴って学校教育は、その拡大を進め多くの歪みを社会全体に生みながら、現代社会を構成するのに無くてはならないものになっている。

 

イリッチ(1971)は次のように指摘する。

 

今日学校制度は、有史以来の有力な宗教が共通にもっていた三重の機能を果たしている。それは社会の神話の貯蔵所、その神話のもつ矛盾の制度化、および神話と現実の間の相違を再生産し、それを隠蔽するための儀礼の場所という3つの役割を同時に果たしている

-イリッチ,I ,(1971=1978),『脱学校の社会』,東京創元社,東洋・小澤周三訳,p78

 

学校は、近代におけるパラダイム、すなわちハーバードスペンサーの社会進化論に顕著な競争主義的パラダイムを強化し、再生産する近代的装置で在り続けた。特に日本では明治期に上からの改革で一斉に導入された学校教育によって、近代化のためにこうしたパラダイムが急激に刷り込まれた。特に東アジアの科挙制の伝統を残す国々は、血筋ではなく学校価値への適合を図る試験という一元的な価値基準に依る社会全体の競争体制を力強く構築し、日本もその例外ではなかった。学校はまず第一に選抜機構であるのだ。

 

上西議員は次のように述べ、短絡的な自己責任論を唱えている。

 

学校教育制度における自己責任論は果たして容認されていいのだろうか。あるいは給付型奨学金の充実による見せかけの機会均等でなあなあにされていいのだろうか。私は全くそうは思わない。

 

学校教育を媒体とする「再生産論」が教育社会学を席巻して久しい。再生産論的価値観を焼き直し続けるのも批判の多いところであるが、この議論は重要な事実を写しているように思う。すなわち、学校における競争とは、純粋な能力と努力に基づいた競争では断じて無いという厳然たる事実である。

 

再生産論に基づけば、学校教育は親の格差を再生産し続ける。裕福な親を持つ子どもは学校価値にいち早く順応し、潤沢な資金を元に「大学に入るため」の金のかかる教育とやらを受け成功体験を積み重ねながらやがてハイアラーキーな文化階層に受容されていく。一方貧困家庭の子どもたちは、満足な道具も揃えられず、親はただ学校という競争パラダイムに無邪気に夢を見、どんどんと子どもを追い詰め、彼らを破滅させる。あるいはそもそもハイアラーキーな文化そのものに理解を示さず、子どもも親と同じように低所得層に落ち込んでいく。「何を教えるか」「どう教えるか」は実はさして問題ではなく、学校が評価する場、選抜する場である以上、こうした制度的機能は永続する。

 

教聖ペスタロッチは教育により貧困の源泉をせき止めることを目指した。しかし現代において我々を支配する教育観-すなわち学校教育を前提とした教育観-はいつまでも貧困をせき止めることはない。たちの悪いことに学校教育は宗教的様相を帯び、人々全てを学校教育に向けさせ本当に重要な「教育」の価値を見失わせる。

 

一方、上述したように、我々が実際に生きていくならば学校教育の競争主義的パラダイムに飛び込まざるをえない。そこから敢て外れ、五里霧中の中を切り開くコスト感覚、あるいはリスク感覚に比べれば悲劇的な競争に夢を見た方が良いに決まっているのだ。自己責任論の悲惨は、チャレンジを奨励するのにそれに対して何等の補償も用意しない無責任さにある。

 

給付型奨学金はこうした学校教育の悲惨な機能を強化する機能を恐らく果すだろう。どれだけ上手に制度設計を行おうが、より多くの人を不毛な教育投資競争に巻き込む結果しか生まないに違いない。本当を言えばもっと抜本的な、社会全体の一元的な価値観を変革する必要がある。

 

しかし、私は給付型奨学金に敢て反対はしない。まず第一に給付型奨学金は大したコストではないし、私が誇張するほど大きな影響力を持つ制度ではないだろうから。そして私はその競争がいかに不毛であろうと、スタートラインにすら立てないことが如何に人々を絶望させ、動機づけを低下させるかを想像しうるからである。

 

 当座、給付型奨学金と合わせて、競争に敗れた人たちが安心して暮らせる社会設計が急務であるだろう。今後、もしかしたら学校という制度、すなわちすべての人に概して同じ教育を画一的に無償で施すという制度が現代に適応できなくなり、より新自由主義的な、より格差を根深いものとする制度へと移行するかもしれない。私はその時、より競争の強化された時代で勝者で在り続けられる自信はないし、あるいは無思慮に敗者を切り捨てる人間社会に希望は感じない。

 

教育内容そのものの社会的インパクトは実は大したことがない。その構造的インパクトの方が遥かに重要である。その構造をつくり出すのは社会そのものにほかならず教育改革は常に社会改革(あえて改良とは言わない)とセットで論じられねばならない。少なくとも個別的にあれはいいがあれはだめだ等と語る問題ではない。

 

・参考

・J.カラベル,A.H.ハルゼー(1980),『教育と社会変動 上下』,東京大学出版会

・イリッチ,I ,(1971=1978),『脱学校の社会』,東京創元社,東洋・小澤周三訳

・M.トロウ,天野郁夫・喜多村和之訳(1976),『高学歴社会の大学』,東京大学出版会

竹内洋(2011),『学歴貴族の栄光と挫折』,講談社