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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育にできること ~トランプ選挙を受けて~

教育 時事

今日、すなわち2016年11月9日はBrexitのその日と同様歴史に記録される日になるに違いない。我々若者世代が経験した、最も劇的で、最も悲観的な選挙結果に直面することになるとは、昨日まで想像さえしてこなかった。

 

Twitterなどでは随分茶化したが、私などの未熟者でさえ歴史の潮目を感じざるを得ない。正直に言えば裏で書いているシティズンシップ教育に関するレポートの執筆すら投げ出したくなるような結果である。端的に言えば教育や理想、文化などというものは即時的短絡的な現実に対してひどく無力であったことが思い知らされた瞬間である。

 

世界はブロック化していく。これはもはや疑いようもない事実である。結局持てるものが食べていくために、持たざるものを食い物にせざるを得ない。人類共栄などという幻想は、現実的に明日、食っていけなくなるかもしれないという恐怖感のうちに消え去り、時代錯誤的な共同幻想のもとに人々は集約していく。怒りと不安は理性を超越してしまうという、ただそれだけのことである。

 

今回の選挙戦全体を見つめながら、トランプを小馬鹿にする「知識人」の選挙活動にはいささか不足を持って眺めていた。トランプの主張を如何に馬鹿にしようが、あるいはとんでも理論だと論破しようが、支持理由がそうではないのだから仕方ない。トランプ支持者をすげ替えるには現実的な支持者層の恐怖や不安をフォローアップし、「強いアメリカ」を欺瞞でも主張せざるを得なかったのだと思う。しかし、マッチョイズムなアメリカ像を引っ張るリーダーイメージとしてクリントン女史はいささか不足していたのだろう。時勢を反映した候補を時勢が選ぶという意味では極めて民主主義的な結果であった。

 

 

拙い選挙講評は置いておいて、本題に入ろう。絶望的な論題である。すなわち現実的な恐怖や怒りの前に立ち消えになる小手先の教育には何ができるか、もう一度我々は答えを、百歩譲っても合理的な考えを提示しなくてはならないのだ。高邁な理想や道徳を唱えているだけでは目の前の危機を打破し得ないし、あるいは理想に向かって目の前の困難を堪え忍べるだけの精神力を大衆には求め得ないという、言われてみれば当然の結果である。カント教育学が崩壊した瞬間である。

 

確かに理想は大事である。人種を、地域を、国を超えて人々が互いを認め合い、互いに共存し発展していく。宇宙船地球号の乗員として我々は世界市民的な思考を持ち、同じ乗員の苦悩をともに分かち合い、乗り越え無くてはならない。理想としてはこれが善いのであろう。そしてもし世界が理だけで動くならば、そうして共栄していくほうが個々人にとって恐らく利益になるであろう。しかしそれは在りえない前提に立っていることを認識しなくてはならない。あるいはそんな世界は息苦しく、人間的ではないに違いない。人間とは理性だけである前に動物としての本能を持つということが無視され続けてきた。あるいはそれは乗り越えねばならぬ「悪」として蓋をされ続けてきた。

 

リベラリズムの、ロマンティシズムの敗北というのが今回の選挙講評として恐らく最も正しいものになろうかと思う。人は不合理であろうと定まった答えを求める。人は群れたがる。そしてなにより人は明日を生きたがる。こうした本源的な性向に対してリベラリズムはそれに配慮した未来像を提示してこなかった。「自ら選び取るのだ」という理想ばかりを垂れ流しにしてきた。

 

 

現実の前に理想は無力である。あるいは教育はもっと無力である。我々の学習や成長は、何より現実に依り、教科書などには断じて依らない。我々は成長するに連れ社会を、自分を取り巻く限定的な社会を知る。そしてそこで揉まれるうちに自己の思想を(それがオリジナルである場合は極めて少ないが)持ち、それに応じて行動するようになる。一方無力な教育にはどんどん求められるものが多くなり、本質的な教育内容は減じていく。高度な理数系知識、高度な教養知識、異言語知識等々、それを会得しうるものは「成功者」であり、会得できないものは「失敗者」である。教育内容は競争のための道具に貶められ、本質的に内面化されなくなっていく。

 

我々は、現実から学びうる事をより多く学ぶ教育を為さねばならない。エログロナンセンスをひた隠しにし、きれいに見える仮想だけで教育を行ってはならない。リアリティを持って見せ、残酷であっても体験させ、頭ではなく体で基本を知るようにならなくてはならない。教育方法において確かに不合理は配されるべきだが、過度な配慮や現実に立脚しない理想主義もまた、同様に廃されねばならない。

 

もう一点、教育は断じて学校だけで行われるもの、若年層に対してだけ行われるものではないのだということをもう一度認識しなくてはならない。教育がうまく行けばこんなことにならないなどという免罪符的な行為として教育を論じてはならない。教育とは所詮最小限の、人から人に為しうる行為、あるいは技術にすぎない。もっと根本に立ち返り、理想を見つめながら現実のニーズと折り合う態度が求められる。

 

我々は、変化し続ける時代の中で、生きるための基本を伝え続ける死にものぐるいの実践として教育を変革していかなくてはならない。そしてその責任は教師だけが、親だけが負うものではなく社会全体が負うべきものである。すべての人が教育者であり、全ての場面が学びの場である。今回の危機感もまた学びの機会であろう。

 

最後にもう一点、当事者の論理を忘れてはならないということがある。理性的に正しいことがすべての人にとって正しいこと、善いことであるという幻想は捨て、頭ごなしの観念論も放棄すべきである。教育者は教育されるものに向き合い、彼らの論理に寄り添い、それを受容し、それもまた立場であると認識し、その上で生きるための基本を教えなくてならない。不合理を悪として廃し、直線的に進歩を続ける啓蒙の時代は終わったのだ。

 

 

浮足立った自称良識派は一度落ち着こう。そしてもう一度人々の支持を集めるために効果的な行動を模索すべきである。それが我々が一蓮托生しようとしている民主主義の本源的行動であろうし、それもまた人間理性の可能性である。