ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

君の名は。が流行る日本という国

==ストーリーに関してほとんどネタバレを含みません==

 

新海誠監督の最新作、『君の名は。』が大ヒットしている。興行収入が邦画としては、宮﨑駿監督作品のアニメ映画以外で初めて100億円を突破し、大ヒットしていた『シン・ゴジラ』を颯爽と抜き去った。私のTwitterのフォロワー界隈でも「見た!」との声が絶える日はない。ミーハーの気質が強い私もご多分に漏れず見に行ってきた次第である。

 

 

ストーリーに関して言えば「大したことない」と言わざるを得まい。言ってしまえば深夜アニメや美少女ゲームやらでさんざん繰り返されてきた筋そのもの-ご都合主義に満ちたペラペラストーリー-であり、考察も何もない。良くも悪くもスッキリした観賞後の感じを与えてくれる、そんな程度のものである。

 

素晴らしい点はといえば、映像美と音楽の美しさが筆頭に上がる。豪華な作画陣を迎え新海誠独特の色彩感覚をもとに描ききった映像美は、普段見ている僕たちの世界をデフォルメし、「夢のような」という形容をしたくなるほど、素晴らしい体験を鑑賞している我々に与えてくれる。RADWIMPSのうたう4曲の劇中歌・主題歌も映画の雰囲気に美しくマッチしていて、あの曲を聞くたびに君の名は。の空気感を感じることができる。

 

 

さて、本題に入ろう。君の名は。はなぜ流行ったかという考察である。本稿では思い切って、日本の若者文化と共同幻想という切り口で流行の理由を探っていきたい。

 

「若者の消費離れ」というフレーズがある。まあ元来からして若者-特に学生-というものは金がない存在で、自らの貴重な時間を身売りしてアルバイトをして得たわずかな身銭でこすい遊びをし続ける存在であり、あるいは学費やら食費やら下宿代、サークル参加費等々でてんやわんやしている学生も多い。そして世代としてそもそも絶対数が少ない。日本の過度な少子高齢化状況は耳にタコが何個できたかわからないほど論じられてきたが、ご多分に漏れず、現在の「若者」は我々より上の世代と比べて絶対数として非常に不足する。消費額が低迷するのも分かる話である。

 

しかし、そんな若者でも使いうるわずかばかりの金は持っている。その消費の方向、すなわち若者の消費文化と君の名は。というコンテンツが見事に合致したからこれだけのヒットをあの映画は記録したのだと推察するのは恐らく間違った思考であるまい。では若者の消費文化とは何か。デジタルネイティブの消費文化について考えていこう。

 

デジタルネイティブの消費文化を探る前に、まずデジタルネイティブ世代の特質を考える。

 

まず、デジタルネイティブは、複数の拡散する自己像を持つことに慣れている。スマートフォンがここまで普及し、各種SNSが発達すると、我々は従来とは全く違うコミュニケーションの手段を手にすることになった。元来、発話とは常に自己開示と方向性を必要とする行為であった。また、「自らの意見」を「世間」に対して発話する、あるいはシェアするという行為は非常に高級なことであり、一部の世代に独占されることだった。何故ならそれを伝えるための物質や時間に対して相応の維持費がかかる行為であったからだ。サイバー空間はこうした物質性や時間性をゼロにし、あるいは任意とした。人は望む言説をいつでも容易かつ多くの場合対価を払わず、眼前の一個端末を用いて触れることができる。あるいは発信もまた然りであり、眼前の端末を用いて、全世界に対して自らをシェアしうるようになった。

 

SNSにおけるコミュニケーションの手段とは更に特殊である。我々はしばしば複数のアカウントを使い分け、その情報を誰がどの程度見ているかをコントロールしながら、見ている層に対して見せたい情報のみを、しかし特定の誰かを対象にするでもなく撒き散らしている。あるいは、見たい情報も多くの場合コントロールし、意識化されないほど自然なまま、情報を取捨選択し、見たいときに見たい情報のみを手にする。我々はサイバー空間上でアカウントごとに「自分」を作り上げ、そのアカウントを教えるという形式で自己の簡便なプロフィールとしている感すらある。

 

サイバー空間が時間性や空間性を取り払ったがゆえに、我々は従来よりあまりにも雑多な情報を瞬時に入手できるようになった。大学デビュー時にしばしば起こることだが、旧来からのアカウントを封印し「大学垢」なるものを作成して大学で1度しゃべっただけの「友達」(とさえ呼べない何か)にそのアカウントを公開することで大学アカウント上の自分という新しい自分を創り出し、その上でそんな友達とさえ呼べない何かが、何月何日何時頃何かの映画に行っただとかなになにを食べただとかいう、極めて私的で旧来であれば決して入手していなかったであろう瑣末な情報を受け取り続けるのであり、あるいはそうした存在に対してそんな瑣末な情報を発信し続ける。

 

そうした軽薄な関係はデジタルネイティブにとっては当然であり、タイムラインという仮想空間上で漠然と「流行っていること」に極めて敏感であり、同時に緩やかにそうした友達と呼べない何かと同じ体験を共有することを楽しんでいるフシすらある。現実世界で我々は属するコミュニティにおける自分像を他者とある程度同質化しようとすることと同様、サイバー空間上でも軽薄な関係の他者がやっていることに対してひどく敏感であり、そうした他者と自分を近づけようと努力する。

 

デジタルネイティブは、この広範なトレンドを認識し、同調しようとする力が強い一方、特定のコミュニティで凝り固まり、複数の自己像をより強く使い分けることに慣れている。グローバル化がブロック化をおしすすめ、トランプなどという一昔前では「そんなの流行らないよ」と思われていた候補が米大統領選でそれなりの支持を集めていることからも分かる通り、我々がサイバー空間において全世界的に開示されればされるほど、我々は個別化し、全世界から見つけた自らの同質者と群れようとする。

 

デジタルネイティブの消費文化は、こうしたブロック化した「自分」のコミュニティが有する「共体験」を買うことにある。

 

「共体験」を買うとはどういうことか、すなわち「他者」と同じ体験をするために、その体験にお金を使うということである。

 

共体験を買うということに私は2つの意味をこめている。1つは何の事はない、若者はミーハーであるということである。「周りがやってるから」「周りと一緒」を志向し、周りと同質である自分を志向し、あるいは周りと同質である自分を演じるために流行りものに金を払うということである。これはあるいは若年層に限った話ではないかもしれないが、私には若い世代の方がこうしたことに敏感であるように感じる。

 

ともかく、我々はミーハーである。先程デジタルネイティブの特質について記したが、消費文化について焼き直せば、我々は、他者がまき散らす言説のうち、自らの言説となんとなく共通の方向性を持ったトレンドをSNSというフィルターを通じて認識し、そのトレンドに自己を同化させながら少しだけ違う「ワタシ」をアピールしようとする。一昔前よりも、自らが合わせやすい「タイプ」を見つけやすくなり、人々は自らのヲタっ気を隠そうとしなくなった一方、ヲタっ気の外に対してひどく無頓着になった。

 

こうしたSNSの作用は、以前より流行り廃りのサイクルを遥かに早め、コンテンツの消費サイクルを過激にしていることはまず間違いない。コンテンツは何も映画やら漫画やらといったものにとどまらず、流行語であり、服装でありといったものに及ぶ。自らと似たコミュニティがみんな体験していることを自分も体験したいという欲求はどんどんと増幅し、無い金はそこに落とされるのだ。

 

2つめは、同じ場にいる他者(それが「友達」でなくても)と同じ体験を生で分かつという体験に金を使うという意味である。デジタル化が進み、物理的なモノの存在価値が薄れるに連れ、我々はアナログなこと、アナログでしか出来ないことに対する価値を強く認識するようになってきた。今やほぼ全てのアーティストはライブで集客することで食っていく時代であり、プロ野球の観客動員はテレビ視聴率の低下と反比例するように年々増加している。他者は誰でもいい、多くと同じものを見、喜怒哀楽を楽しみ、言葉はなくとも場の雰囲気としてそれを分かつという体験を若者は特に求めているように思う。こうした一種独特の高揚感のために、若者はない金を叩く。

 

 

さて、それでは、なぜ君の名は。がこうしたデジタルネイティブな若者の消費文化とマッチングしたか、それはその見せ方であり、ストーリーでありが我々の持つ淡い期待と言う名の共同幻想を刺激しながら、広範な「オタク分野」に働きかけ、強い同調欲求をSNS上を中心に呼び起こしたからであり、あるいは簡便に共体験を思い出しうる装置を生み出したからであろう。

 

我々が常日頃受け取る言説は、我々がそれを無意識的に取捨選択すればこそ以前よりずっと強固に強化され、そして入れ替わりの激しいものになった。しかし3大欲求につながる言説-寝たい、食べたい、性的欲求を満たしたい(≒彼女/彼氏が欲しい≒自己承認欲求を満たしたい)は、さらに以前にも増して無秩序に拡散するようになったように思う。

 

また、書き忘れていたが、デジタルのもう一つの作用として、VRの発展に顕著であるが、よりリアルな仮想現実を簡便に創造できるようになったという点がある。君の名は。というアニメは確かにアニメであるが、何やら「ありそう」と思えるようなリアリティと想像上の美しさをマッチングさせうる技術的なバックボーンに支えられた映画である。仮想現実における理想主義的恋愛観を人々は共有しやすくなり、少女漫画的な恋愛観が焼き直されるに従って共同幻想もまた、強化され続けてきた。

 

 

我々は、何やら良いと言われている者にすぐかじりつき、一口くちをつけては美味しかったと言いながら味わいつくさぬままぽいっと捨てて次に向かう消費文化の申し子である。いかにみんなが食べたいものを提供するか、これこそが若者への訴求力と直結するのであり、それが化学調味料たっぷりの一口目だけ美味しい軽薄なものであったって一向にかまわないのだ。君の名は。がここまで「軽薄」と呼べるものであったか、判断する気はないが、ああした流行り方を見ていると以上のような言説を撒き散らさざるを得まい。