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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

アクティブラーニングを考える-中教審「審議まとめ」発表を機に

去る8月1日、文科省中央教育審議会教育課程企画特別部会に提示された次期学習指導要領に関する審議まとめが公表され、各紙の一面を飾っていた。だいたい謳われていることを参照すれば「アクティブラーニングの普及!」「外国語教育の強化!(小学校中学年時」「国語教育の見直し!」「各教科の「見方」伝達の強化」である。

 

外国語教育の強化そのものに非常につっかかりたい気分もあるが、今回は、「妖怪」と言われるアクティブラーニングそのものについて考えたい。アクティブラーニングとは「主体的学び」「対話的学び」「深い学び」の3つの学びの視点を合わせた生徒主体の体験的学習のことであるらしい。文科省内で「いわゆる」などという表現がついたりする程度には曖昧な表現である。

 

さて、今回アクティブラーニングを考えるにあたって、アクティブラーニングを用いた教育活動とは一体どのようなものかもう一度考える必要がある。一般にアクティブラーニングを用いた活動として最初にあげられるのが「話合い活動」である。生徒たちが相互にグループで話し合いの場を持ち、問題発見・問題解決のプロセスを踏みながら主体的に学び、そしてそこで得た知見・視点を更に主体的に深化させるという一連の流れがまさにアクティブラーニング的であるというところもあるだろう。道徳の学習指導要領の決まり文句「補充・深化・統合」ではないが、そのような役割を個々人が主体的に行うというところがアクティブラーニングの要点である。

 

なるほど従来、教室における学校教育は、特に日本において、教師が生徒に何らかを教えこむ一斉教授の受動型学習をその活動の中心としてきた。生徒は常に教師の与える答えに服従し、あらゆる問題において生徒は教師の隠した特定の「答え」を探す活動を学習と認識してきたように思う。先進国の成長が頭打ちとなりAIや発展途上国の発展により、我々は新しい産業・仕事を自ら創り出し、混沌とした未来に新しく秩序を敷いていく必要が求められ始めた。そんななか、わが国では自ら考え、問題を発見し、それを解決する主体的人格の育成が急務となっている。その中で考えだされた「妖怪」がアクティブラーニングである。

 

文科省の指針の受け売りをしていてもしかたがないので、本稿では二点、アクティブラーニングにおける暴力性と妖怪の妖怪たる所以を考える。

 

アクティブラーニングの暴力性は、作り出す過程からその一応のゴールに至るまで、一貫して「自分」を求められ、生徒は否が応でも自分の今に向き合わされる点にある。今までただ漫然と自分を持たず(あるいは自分を開示せず)、受動的に過ごしていればよかった学校生活が、アクティブラーニングによって能動的な場へと変わることで、結果的に自己の能力に関する点や生徒間競争をより助長する結果となり、できる子を立てるとともに、できない子の疎外感を際立たせる可能性もある。

 

もちろん、私は漫然と受けて入ればそれで済む現行型の教育を、上述のような暴力性のみに立脚して「やるな」と断じているわけではない。ただ往々にして主体的な学びは、その学習効果を主体に依る限り、学習方向の管理が難しく、意図した教育効果とは違った効果を及ぼすことも多い。また、「対話」「他者理解」と簡単に言ったところで、できる子がただ話し、できない子がそれに同調する環境や、そうした「役割」がスクールカーストが唱えられる今まで以上に学級内で固定化し、教育において最も問題視されている教育を通じた社会階層の再生産機構を更に強化してしまうのではないかと懸念することは最もなことであろうと思う。端的に言えば、アクティブラーニングは学校社会の暴力性を強調するという論理を内包するわけだ。

 

アクティブラーニングにおいて、現状最も問題視されている点は、教師の教育力がアクティブラーニング的教育に順応可能かという点にある。この場合においても同様で、今まで教えこむことに終始した授業と、それを基にした指導を行ってきた教師が、さて今日から生徒が考える教育を行って下さいと言われて、それを果たせるかという問題がある。意識的にそれに取り組む教師は置いておいて、大半の教師は上から来たものを生徒にある程度個別的にアレンジを加えながら横流しする役割をもってその職務を行っているであろうし、あるいはそれができればその教師は十分有能であるといえる。

 

しかし、あらゆる生徒指導に関する臨床心理的知見が繰り返し唱えられ、いじめに関する言説が絶える日はなく。これほどまでにジェンダー論的論調が幅を利かせた現代にあってなお、高圧的強権的で生徒に対して様々な意味で無理解・無遠慮な指導、マニュアル的な「つまらない」教室風景は再生産され続け、教師は職務をなるべく苦労なくこなそうとし続けるものも多い。そうした教師らに「アクティブ・ラーニング」の手法を伝えたところでその暴力性ばかりが際立つことになりはしないだろうか。

 

無論、そうした教師らに「仕事をさせる」ためにも新たな、手間のかかる教育手法は必要であろうし、それで生徒が現状から少しでも「善い」方向に向かってくれればいいと思う。そのためにも教員研修だけに留まらず、生徒をも巻き込んだ地域ぐるみのカリキュラムマネジメントを行い、それぞれが内容や方法を磨き上げる姿勢が重要となるであろうし、現状比較的機能していると言われる初等教育段階の「学級活動」からその実績を小中・中高と接続しながら発展・継続させていく必要があるだろう。(ありきたりなけつろん)

 

 

さて、次に妖怪の妖怪たる所以である。アクティブ・ラーニングという単語が唱えられる領域を聞くとしばしば呆然とする。道徳や特別活動の分野で唱えられるのは元々からして当然であろうし、あるいは英会話等を含む英語学習、理科の実験学習などの体験学習でそれが言われるのは分かる話である。しかし、国語や数学といった分野でもアクティブ・ラーニングが唱えられ、社会でもアクティブ・ラーニングをなんていう話せば長くなる歴史的経緯をふんだんに含んだことが唱えられる。今までの受動に対するアンチとして能動が用いられ、受動が適した教育内容にまで妖怪が蔓延ろうとしている。

 

教育内容や評価のベースをコンテンツベースからコンピテンシーベースへというのがOECDの目指す全世界的な「善い」方向であるらしいが、学なき雄弁=デマゴーグ=への本能的危機感・嫌悪感は恐らく、少なくとも我が国においては拭い切れないのではないかとおもったりする。いくら結果論的な統計データを見てアクティブ・ラーニングのほうがパッシブ・ラーニングよりテストの点的な意味でも教育効果が高いと主張したところで、それへの本源的懐疑(教えて覚えさせて反復させねば人はモノを覚えないという信念)は拭えないのではないだろうか。こうした懐疑感を無視したまま妖怪のようにあらゆるところに氾濫し出没しているのが今のアクティブ・ラーニングというワードである。

 

 

要はケチがつけたかっただけであり、この点は往々にして留意されていることのようにも思う。ともかく、こうした懐疑的姿勢を忘れないようにしつつも、しかし「今」に安住する事なく漸進的で地に足の着いた改革が求められる。そして我々学問者が検討すべきはその哲学の検討と効果の実践的な測定という難題であろう。