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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

写真の写すもの

雑記

私のささやかな趣味の一つに写真がある。最近写欲が減退して文字で考えてばかりいるから堂々巡りであるのだが、今回はそんな写真について少し考えてみたい。

 

写真は、読んで字のごとく「真を写したもの」であるが、英語のphotographであれば「光のかかれたもの」となる。この写真の「真実性」やらがクセモノであり、私を常々悩ませる。今回の主題はこの辺りになるであろう。

 

カメラは機械としてみれば、目の前から入り込んだ光(色情報)を何らかの形で留め置く道具であり、それを現像したものを写真と呼ぶ。我々が見ていた景色のなかの、視覚情報のうちの多くの光の要素、色の要素を捨象し、解釈し、記号化する作為全体こそが「撮影」という行為であり、どういった形であれ真実と写真に切り取られた一瞬は一対一対応とはなっていない。

 

また、そもそも我々は視覚で捉えられる事実を決して一点の時間で捉えたりはしない。もっと言えば視覚だけをもって目の前の事実を感じることは決してない。我々の感覚は面的で境界が曖昧な一個の集合として場の雰囲気の多くを感得し、何やら記号化できないぼんやりした形で記憶の片隅に留め置いている。この限りにおいて写真が「真を写す」などというのはそもそも傲慢な話であるとわかる。

 

しかし、我々はしばしば、特にフィルム写真に対して、写っているものを無邪気に真実であると思い込む癖がある。時間が点に圧縮され、視覚情報以外がすべて取り払われた、せいぜいが粒子のある特定の連なりを事実と錯覚し、それを以って何故か場の状況すべてを論じようとする。

 

逆説に逆説をかぶせるのも頭が悪いレトリックであるが、一方、写真には、撮影したまさにその瞬間、機械によってダイレクトに留め置かれる瞬間的な目の前の視界を蓋然的に保存出来るだけの可能性はあるともいえる。真実らしきものを真実らしきものとして記録する手段として写真は優れているし、いくらフォトショップやら現像工程で手を加えようとオリジナルなデータ(あるいはネガフィルム)には目の前で起こっていたある瞬間のレンズの画角や切り取る設定次第の視覚的事実が記録されているといえる。「見えないモノを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ」ところで見えるのは精々人間の視力では捉えられない星雲程度でそれ以上のモノではない、ともいえる。

 

 

全く夢のない話をする気は更々なくて、この真実と虚構の二面性こそが写真表現の奥深さであるように最近考える。しばしば、「その場の雰囲気まで伝わるようないい写真ですね!」という褒め言葉があるが、写真は視覚を他者に提供することで他者のうちにある「感覚」や「記憶」を呼び覚まし、補完する機能があるし、それは、絵よりも真実に近いように見える写真だからこそ呼び覚ましうる強烈な感覚であるのだろう。一方、それが虚構であり、一種「ナマ」の視覚から乖離しているからこそ我々はその場の状況を写真という一枚絵から「想起」せねばならず、写真表現という領域を成り立たせているとも考えられる。

 

以前以下のポストで、「想起」の方向をうまく操ることで自らを表現することは可能であると書いたことがあるが、写真に関して言えば目の前の景色を切り取っているのだという自意識の上に立脚し、他者に場をうまく想起させうる方向性を知悉し、そうした方向性に沿った被写体・構図・色合い・現像手段に至るまで考え写しだすことでそれは表現可能である。この絶妙な非言語的「センス」こそが写真表現を芸術たらしめる所以であろうし、あるいは写真作家というものが相応にいて、我々とは異なるセンスで、ガーリーであれスナップであれ一定のファン層を獲得し好んで観賞されている点である。


 

もう一点、あくまで他者に伝えるためのものとしての写真論の他に、自己のうつしかがみとしての写真というものがある。写真をやっているとしばしば、写真を見て、その時の自分の本当の気持ちを思い出すことがある。我々は普段、自分の気持ちを過度に抑制しがちで、それを体験している当人さえ、その感情を言語化・明示化せずなあなあのまま今風に言えば「エモい」などといった単語でまとめたりする。しかし、我々に通底する得体のしれないどろどろした、あるいは純化された欲望は、案外写真を撮ることによって現れるものである。

 

例えば暮れゆく空を撮ったとして、そうしたイメージがすでに一種物寂しさのアイコンであるのだけど、例えば露出を絞ってとっていたり、空そのものではなく長くなる影の更に暗い部分だけを写していればその時の感情が「物寂しさ」という単語だけでは表象しきれない別種の後ろめたさというものをも表すであろうし、その暮れゆく空というイメージの前後で切っていたカットと連続させて暮れゆく空の写真を見れば、また別の物語としての感情を撮影した当人である私もあとから感じるに違いない。

 

 

まとめと、写真のオリジナリティとはそれが記録的であり真実と虚構のうち、特に真実味を感じるような二面性を持ちえているという点である。我々がメディアリテラシーの一環として注意しなくてはいけないのは写真が必ずしも「真」を写すものではないという点であるかもしれないが、しかし写真の写すものとは蓋然的に真実味を感じて見える一個の幅を持った時間の主観的・視覚的記録なのであって、この点を忘れては恐らく写真表現は定立しえないと最近漠然と考えていたりする次第である。