ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育学に関する幾つかの問い-教育学を学ぶということ

大学は絶賛テスト期間中であり、こんなところでいくら書き連ねていたところで単位は来ないのでなんとか回収に四苦八苦しているのであるが、教場試験で積み重なる不完全燃焼感をなんとか発散してしまわないと今後の勉学に差し支えると自己正当化し、この記事を書いている。

 

本ブログのタイトル、「ある教育学徒の雑記」というものからも分かる通り、私は、一応教育学という欺瞞に満ちた学問を専攻している。しばしば文学や哲学、史学と並んで「無能」のやり玉に挙げられ、更に研究手法に置いては文学や哲学、史学の諸分野の足元にも及ばず、結局何もしていないかに見える学問であるが、低俗であるという一事さえおけばそれなりに愉快なものである。本稿では、教育学及びその周辺学問について幾つかの問いを立て、これを自分なりに考察することで不完全燃焼感を打破したいと思う。

 

・「そもそも教育学とは何か」

自分だけが満足するならばそれでいいが、一応読者の皆さんにもわずかながらわかってほしくて書いている側面はあるのでここから書き始めることとする。教育学とは、あらゆる「教育」的作為を様々な角度から分解・分析し、批判することを通じてよりよい教育を考える学問である。間違っても「学校教育」のみを考えるものではないが、教育を語ると学校教育もどうせメインテーマになるので、だいたい学校教育を中心に学ぶことになる。

 

教育学の下部分野に、例えば教育史学・教育哲学・教育社会学・教育行財政学・(教育法学)・比較教育学・教育方法学・(教育心理学)・教育経済学などが存在し、特に教育方法学の中にカリキュラム論・各種教科教育法・特別活動論・生徒指導論・家庭教育論・国際理解教育論なんてものが含まれていたりする。教育という事象を分析するために、様々な分野の分析法を借りてきてメッタ斬りにする学問が教育学だと思っていただいてまあ間違いない。(括弧付きのものはそれぞれ法学や心理学の中に含まれることもある)

 

もう少し具体的に言えば、教育について、例えば学校教育に限れば、学校教育の歴史を考え、その思想的淵源を探り、より善い学校教育を模索し、それに関係する行政法・財政関係を探り、諸外国の事例と時刻の事例を比較し、広く学校教育がもたらすコスト-ベネフィットを分析し、学校教育の中で行われるべき各種内容とその教授法を探り…といった行為すべてが教育学であると言える。文学だ社会学だ史学だ哲学だ経済学だ法学だと細かく分かれている学問分野を「教育」という事象の中でもう一度再構成したものが教育学であり、オリジナリティーがあるのは「教育方法学」くらいであろうが、ともかく大風呂敷を広げた学問なのである。故に(あるとは全く思えないが)教育学部と名乗るならばかなりの学際性が必要なわけだ。

 

・「教育学と文学や史学、純粋哲学との違いは何か」

上で若干答えめいたことを書いた気もするが、個人的な見解を示せば、教育学は文学や純哲より、政治学や法学と似た所が多いように思う。その最大の違いは「実践」の有無にある。政治学や法学と同様教育学も、人類が社会的動物として文明的生活を続けていく以上、常に何らかの形で実践され、評価され、改良されることが要請される学問である。特に政治実践に、史学的分析・哲学的考察・社会学政策評価・経済学的分析など多面的な分析・評価が欠かせないように、教育実践もまた同様の分析・評価が欠かせない。なまじ、「教育はお金では買えない価値がある!」とか「教育とは善いものである!」みたいな教育教が浸透してしまっているばっかりに、当の教育学者ですらこの点を忘却している場合が多いように感じる。

 

・「教育学は何ができるか」

教育方法学と、それにひっついた教育心理学を除いて、それ以外の教育学はしばしば「無駄」扱いされる。近代以降信奉されている「科学的」分析とやらに乗っかって、教育社会学的教育政策評価も幅を利かせているが、それ以外は邪険にされがちであり、事実そういったところの見かけだけの業績に金魚のフンのようにくっついて、ろくに研究もしない(無能)研究者が多いのも教育学の特徴である。学者自身が教育という作為(あるいは単に学問対象)を崇拝しているようでは中世までのキリスト教研究となんら質を異にしないと思うのだがどうもそういう反省すらないらしい。

 

また、教育学の限界を感じざるをえないのは、「文学」をやりたい!「政治学」をやりたい!「経済学」をやりたい!「法学」をやりたい!と志す学生は多くても、「教育学」をやりたい!等という変態サイコパスはかなり少数で、自分を棚に上げて言うのもなんだが、他の学問分野を学べる学部・大学に落ちて仕方なく教育学を学ぶ学生が後を絶たない。また、どんなマイナーな大学でも総合大学であれば上述した学問のいずれかくらい学べるはずだが、教員養成系以外を志向した教育学を学びうる教育学部は僅かであり、文学部の中に教育学コースをもつこともかなり少ない。結果として深刻な(有能)研究者不足を抱えているわけだ。(教員養成系維持の関係から教育学者の数だけはいっちょまえである)

 

こんな状況がなぜ現出しているかといえば、1つは学校教育があまりにも支配的であり、教育教が世界宗教であるからであろうと思う。現代において、あらゆる学問者は「学校」が創り出し、ゆえに学校体系そのものに疑問をもつものは意外なほど少ない。あるいは、そこで教えられるカリキュラム等の内容には疑問を持っても、自らが育て上げられたシステムそのものへの疑問は持たない。人々が子どもを持てば、皆教育問題とやらに直面し、どうすればうまく子どもが育てられるか考えるものだが、だいたい目先の子どもの幸福を願えば、学校社会をうまく泳ぎ抜き、よい中高→よい大学→よい企業というレールに子どもをのせることに親たちは尽力することになる。このレールにうまく載せられるようにと、「似非教育心理学」やら「似非教育哲学」、「似非教育方法学」がしっぽフリフリ世の中に跋扈し、いつまでも教育学そのものの実態は顧みられない。(だいたいあんなものに学問的背景があるはずがない)旧制高校から高校紛争期に至るまで、自己の過程を相対化するためにルソーの『エミール』などが読み回されエリート層が教養としての教育学を習得しようとしていたときもあったらしいが、現在ではそんなこともなくなってしまった。結果的に教育学というものは、人々にわかりにくいのである。

 

さて、ここまでで、私は実は逆説的に教育学にできることを示したつもりでいる。すなわち、世界宗教たる学校教育を解体し、本来的な「教育」という文化を再生産するための人類の発明物を、より善い方向へ向けかえ、改良する所作はやはり教育学的視点がなければ成し得ないことであるのだ。そして、それを学校や家庭といった実践の場に反映させ、より善い次世代を作り文化の発展に直接的に寄与するように仕向けることもまた、教育学でなければできない。教育学にできることは端的に言えば、こうした観点の提示であるのかもしれない。

 

・「教育学は実践学問であるべきか」

最近、もっとも悩んでいることがこれである。私は実践というよりは哲学やら思想やらといった理論(妄想)が好きな人で、教育を隠れ蓑に妄想を垂れ流している。この隠れ蓑というところがポイントで、すなわち私が妄想を垂れ流す自己正当性を、自分の中では、「我々が創りだす妄言は、教育に関していればどこかしらの実践においてわずかながらも役立つ(誰かのために間接的にせよなる)のだ」、という強引な論理によって担保しているからだ。

 

文学や純哲は、いかに素晴らしい理論を立て、作品や思想を分析したところで所詮象牙の塔であるという批判を免れないように思う。確かに様々な分析を通じて得られた「真善美」に関する諸言説は、学問者の魂を喜ばせ、精神を安定させることには寄与するかもしれないが、効果があまりにも限定的で専一的であるだろう。バカがばれるからあまりこういった安直な批判と対比は好まないが、その点教育学とは、一度「善い」方向性を考え、それを実践に反映させれば直接的に人を善い方向に仕向けられるのだ。なんと素晴らしいことだろうか!

 

・・・

さて、先程来、「変態サイコパス」やら「欺瞞」やらという言葉を繰り返し使って教育学を脚色してきた理由がおわかり頂けたかと思う。すなわち、教育学が考えるところの根底に潜むものは、「理想的な1人の子ども」を画策し、その生徒を自分の思い通りに作り変え、「ぼくのかんがえたさいきょうのおとな」に育て上げようとする圧倒的欺瞞と独善が潜むのだ。(一体どこのエミール少年のことであろうか)それに合わない子どもは排他され、強制的に作り変えられ、誰かにとっての善さを洗脳的に志向させられる。実践に付き合わされる実際の生徒は、取り返しの付かない幼少期を誰かの欺瞞のために生きることになるのだ。

 

ただ、自己正当化はさらにここにも及ぶ。だいたいそんなことを言ったって、教育を為さなければ恐らく今より蓋然的にひどい(どこに尺度を置くかの問題が残るが)状況に陥ることは間違いないだろう。誰かがそれを画策しなければならないのなら、それに真剣に向き合い、大衆的に善いとされる相対善を志向させてやることも現実的には必要なのだ…というように。まあ人類の真理探究とは所詮「選択」を伴わねば暗黒の中世に逆戻りするのみであるから、この方針は恐らく正しいのだろうと思う。

 

ともかく、ここで更にもう一つ欺瞞が暴かれる。すなわち、教育理論に終止するもの-即ち夢見物語ばかりを空想するもの-は同時に知識の「選択」という真理探究の義務と責任を免れ、ただ空想上の安全地帯に安住しているだけなのだというものだ。実践は、あらゆる追求された真理の厳然たる選択と検証と具体化を促す。いかに批判し合ったところで完璧な実践をなしうる人はいない。理論と実践の橋を渡し、実践として「実際の生徒」を育ててこそ、教育学は真に有為な学問になるのではないか。そしてその行為は理論者が逃れていいようなたぐいのものには、私にはどうしても思えないのだ。

 

 

象牙の塔は、その実用性を否定することで、そのアイデンティティを保っている。しかし実践が常に要請される教育学にあって、象牙の塔は単に象牙の塔であるだけでは恐らく無責任なのであろう。理論好き(妄想好き)としては中々厳しい結論であるが、これもプラトンの哲人王の思想であろうと勝手に納得して論を閉じる。