ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

祈る行為とは何か

祈りとは世界の意味についての思考である。 

 

ウィトゲンシュタインの言葉であるが、オツムの悪い私にはその界隈の哲学的経緯を追い切るだけの集中力も地頭もない。ただ祈りという行為にはすこぶる興味がある。そういう頭の悪さを吐き出すのがこのブログであるとすれば、すこぶる適切な記事であるのだろう。

 

我々は普段どんなときに祈るだろうか。通常我々が祈りを捧げるとき、天を仰ぐか手のひらを合わせ(それを握るか開くかは別として)我々の間には存しないものへそれを捧げる形が一般的であろう。捧げる対象は確定しない他者であるかもしれないし、神という存在であるかもしれないが、ともかく私という人為ではなし得ないところに向けて我々は祈願する。

 

 

祈っている時、我々の祈りという形をとる肉体と内在する思想は間違いなく分離する。我々は間違いなくその時想起している。自らが手に届く範囲について、自らの行動が及ぼしうると考えられる範囲内について我々は決して祈らない。最後の決め手として、あるいは藁にも縋る思いで、我々はひたすらに祈る。何かを描きながら。それは成功であるかもしれないし、救いであるかもしれない。しかしともかく我々は祈るとき、未来を、私は決して確定できない未来を想起している。

 

夢と祈りとは果たしてどの程度違うのだろうか。祈るとき、多くの場合我々は救われた/成功した自己-あるいは他者像、を夢見ているだろう。ただ恐らくそれは純粋な祈りではない。夢見の様式は祈りの手前である。真の祈りとは普遍的遍在的なものであろうと私は思う。そこに他者も自己もない。ただ無心になって場に包まれそこに一体化することこそ真の祈りである。

 

無を志向する祈りの体験を私は何度か持っている。最近だとシチリアに旅行に行って、パレルモのジェズ教会で思いがけず他の観光客に居合わせなかった時、私はただ無心を経験した。祈りの空間-それが世界のあらゆる宗教の場であれ-は常にある独特の音声パターンに支配されている。(それが静寂である場合もある)広く絢爛豪華な場の奥にあって、すべての感覚を研ぎ澄まし、ただひたすら無であること、無にあることに注力する。祈りの場として作られたそこは、まさにこうした行為に向いている。外界の煩わしさから隔離され、恐らくああした体験を、大人数が頭をたれ共通体験として味わう中で、研ぎ澄まされる感覚に音や言葉を染みこませることで、古来より宗教体験は形作られてきたのだろう。祈るにはまずウツツから逃れるという意味で、夢見の様式が必要である。

 

日本で私がそういう場に出くわすのは、夏に親族の墓参りに行くときである。親族が割りと多いのでいくつも墓があるが、特に山際で生活音が一切しない墓に参るときに強く思う。季節は夏、蝉の声にあたりが包まれ、ただその中で一心不乱に墓石という物体に向かって祈る。最初は親族のことを意識するが、やがて意識が無に収斂する。僅かな時間、私は確かに私ではなくなる。そしてふと意識を取り戻して「私は元気です」と心のなかで伝えて墓石の前を去る。至極霊的・宗教的な、ただごくごく自然にも思われる行為である。

 

都市化が創りだしたものの1つに、間違いなく整備された音声パターンの不足がある。我々は静けさに飢え、静けさに響く音に飢えている。真に1人である感覚、1人であることを超えて場と一体である感覚に飢えている。絶え間のない喧騒、明かり、そこには整然さもあるいは自然の持つ調和もない。

 

ただ、人というのは適応するもので、生まれも育ちも都会となれば、都会でも静寂を創り出せるようになる。奇妙な孤独と評される場、満員電車やスクランブル交差点等の雑踏で、耳を塞ぎ、目も見ているようで何も見ていない状況に自らを置き、孤独を創りだす。無意識に祈りの場をそこに創りだす。それを意識するか否かが過去と今の相違なのであろう。

 

 

私は、あの得も言えぬ遊離感がたまらなく好きである。恐らく俗的な祈りしか私は経験していないからであろうが、私は多くの場合、祈るには相応の場が必要であると考える。そもそもこの議論を始める切っ掛けは、Twitterで盛り上がっていた「お墓は必要か」論争であったのだが、祈りの場として、お墓という物質、あるいは墓所という空間はなかなかに独特であり、その感覚を末代まで伝えたいというエゴのためにお墓は必要であるといいたいがためにこの記事を書いている。勢いだけで書いた当を得ぬ記事であった。