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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

ヨーロッパ統合構想への弔辞 ~英国EU離脱に際して~

雑記 時事

6月24日の日本時間で昼ごろ、英国時間だと早朝、イギリスのEU離脱国民投票で裁可された。同日残留派筆頭のキャメロン首相が辞意を発表、戦後ヨーロッパが目指してきたヨーロッパ統合構想が死した日であった。

 

キャメロン首相辞任に伴い、幾つかの選挙が行われるだろうし、正式な離脱に向けては相応の時間を要するだろうから、まだ「確実に」離脱するとは限らないが、2016年の一時点においてこのような民意が示されたことは確かである。それだけでも、やはり戦後欧州の取り組みは失敗に終わったと言っても良い。

 

英国が自らを画策されるところの「ヨーロッパ」の一部であると自認していたかどうかはまず疑問であるが、歴史的経緯から言っても、地理的空間的認識から言っても、そこはヨーロッパであった。しかし、近視眼的な歴史的経緯から言えば、英国は独仏主導のEECには加盟せずEFTAを独自形成していた経緯があり、加盟後も一貫して共通通貨ユーロの導入を拒んできた。画策される大ヨーロッパの中で少々特殊な位置づけであったこともまた、事実である。

 

 

英国は、常に僅かな距離ながらドーバー海峡という断絶を持っていたが故に、古来より特殊な地域であったが、大きく「西洋史」の潮流に揉まれ続けてきた国家であった。「ブリテン」という地域が、語られる「世界史」という欺瞞に登場するのは、ガリア平定をなしたユリウス・カエサルが最初となる。ガリアの安定のために、カエサルブリテン島に遠征、現地ケルト人を服従させた。以降、AD43、第4代ローマ皇帝クラウディウス帝が、ブリタニアに進出、ブリタニアをローマの属州とした。この一事を持ってチャーチルをしてドイツを「リメスの外の蛮族」的に捉える自意識につながっていることもなかなか興味深い。(映像の世紀参照)一つ補足しておくと、ローマと外界の境界線が「ハドリアヌスの長城」であり、ほぼほぼ現在のイングランドスコットランドの国境にあたる。ちなみにクラウディウス帝はその性格的特質から私がローマ皇帝の中で気に入っている皇帝の筆頭に挙げられる。

 

ローマ帝国の弱体化の理由やその過程について語る気はないが、事実として弱体化する過程で、AD.403、ついにブリタニアはローマに放棄された。ここからがイギリス第二の歴史、「蛮族」の歴史の始まりである。自分もまったくもって調べたわけではないから、世界史(笑)の教科書・参考書と偉大なるGoogle大先生に頼る限り、ヘプターキー時代→ノルマン・コンクエストマグナカルタウェールズ侵攻→スコットランド侵攻→100年戦争→テューダー朝と進む。ドーバー海峡を隔てた北欧、フランス、スペイン、オランダらとの確執・覇権争いが常に歴史に通底する要素となる。あらゆる覇権争いに勝利し、産業革命を成し遂げた英国は、世界に冠たる「大英帝国」としてローマ帝国パクス・ロマーナモンゴル帝国のパクス・モンゴリカに並び立つパクス・ブリタニカを作り出す存在にまで発展する。大英帝国衰退の理由もまた書けば書くだけバカがバレるのでおググりいただきたいが、「覇権」はどう遅く見積もっても20世紀にはアメリカに移った。1940年代のパクス・アメリカーナと呼ばれる時代を経て冷戦→混沌を経て今に至る。

 

大雑把すぎて記さないほうが賢明だったかにも見える英国通史であるが、ここから何が言いたいかといえば、やはり英国は伝統的に「ヨーロッパ」であったということである。いかに英国人が超然的態度を取ろうと、一時的に「大英帝国」であった幻影期を除けば一貫してヨーロッパという一地域に根ざした国家であったことは疑いようもない。以降は、EU構想の目指したものとその帰結の悲哀をただ述べるに留めたいと思う。

 

 

ヨーロッパ統合構想は、その「ヨーロッパ」という地域認識の揺れは別にしろ、欧州史において西ローマ帝国の崩壊以降、常に悲願として通底していたであろうことは想像できる。カール大帝・十字軍・30年戦争とウェストファリア条約等、全ヨーロッパを巻き込んだ運動は枚挙に暇がない。この構想は長い歴史的悲願と、二度の大戦という耐え難い消耗に立脚した遠大かつ必然の構想であった。そして、EFTAという対立軸は含んだものの、英国が統合される「ヨーロッパ」に含まれることもまず間違いなかった。

 

しかし、戦後すぐのヨーロッパ統合は決して、理念的な「ヨーロッパ統合構想」に根ざしたものではなく、(大きな間違いを含む言い方で言えば)実体的には独←→仏という限定的対立構造の解消という文脈で生み出されたものであった。無論、その原初からしてヨーロッパ統合の夢があったことは確かだが、それだけが第一義であったことはない。この点において、英国は、独仏←→英という対立軸にあって常に孤立的な立ち位置にあった。ある意味で、英国の「独立」はここに起因すると言ってもいい。

 

 

私は、元々からして、広域経済国家としてのローマ帝国を思慕してやまないのである。人種や宗教を乗り越えて、地中海全域の人々がローマ帝国の一員として、「ローマ人」としてのアイデンティティを有していた時代が確かにあったのである。(市民権周りで随分語弊があるが、面倒なのでこうしておく)それは、「国防」「経済共栄」といった共通の利害で結びついた諸国連合でもあったが、同時に、「ローマ」という一国家が、地域国家を超越した形態であったのである。ここにローマへの思慕の理由がある。

 

ひるがえって現在を見たい。ウィルソン大統領による民族自決の宣言に支配された現在を。もはや、広域国家どころか、地域国家すら定立し難くなった現在を。国家アイデンティティは細分化し、地域へと再度還元しようとしている。そして、その地域もまた、更に細分化し、巨大な共同体はその結びつきを強めるためにあの手この手と躍起になっている現在を。EUという取り組み、それは多くの問題を抱えつつも、現代において、かろうじて広域国家を定立させるという人類の夢を体現した組織であったし、しかしそれすら崩壊の危機にある現在を。個人の権利獲得という文脈は、ついに様々なアイデンティティを解体し、それに順応した新しく共通した共同体観を人類はデザインできていない現在を。

 

 

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』という名著があるが、その中でこんなエピソードがあったことを強く記憶している。すなわち、坂本龍馬が自分を「日本人」であるとした最初の人であるというそれである。幕末当時、人々は、所属する藩の一員として自己を見ていたと司馬は言う。しかし、坂本龍馬のみが、自らを例えば「土佐人」だとか「江戸人」だとかせず、「日本人」であるとしたというのだ。

 

「日本人」という思想は、ウェストファリア条約以降生み出された主権国家の思想を受け継ぎ、(琉球や北海道を含んでいたかは置いておき)広義の「日本国」の一員として自己のアイデンティティを拡大させたと取るほうがむしろ自然であるが、藩という一種絶対的な主権共同体を乗り越えたその思想は注目に値する。

 

私は、歴史は発展的に過去を繰り返し、括弧付きの「発展」を遂げ続けると信じている。少なくとも、記録された「過去」が、ある程度以上、過去の真を残し続ける以上、我々は円環的に過去を乗り越えていくと信じている。その意味で、我々はもう一度領邦国家を乗り越え、主権国家を乗り越え、ローマ帝国を乗り越えると信じている。しかし、今日の一時点において、この取組は頓挫してしまったのである。

 

インターネットの発達・交通手段の発展・マイノリティへの配慮等により、旧来的な国家帰属意識は希薄化の一途をたどっている。それが一概に悪であると言う気はないし、昔よりはよっぽど住み良い社会になっているであろうと私は思う。しかし、人類は未だ旧来的なそれを捨てきれてはいない。どこかで大きな、自らを包摂してくれる共同体の存在を思慕し、そういった強い(束縛的な)共同体を渇望している。

 

我々は、やはりこうした欲望を乗り越えていかなくてはならない。それがどうあるべきか、私にはまだわからないが、言葉を持つものは全て考えていかねばならない。様々な障壁を乗り越えるとき同様、それは痛みを伴うだろうし、あるいは過去と同じことを繰り返すかもしれない。しかし、そうせねば「発展」はありえない。そう私はこの件に際し思う次第である。