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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

早大紛争から50年~未知の世代が思うこと

1966年の6月22日、第一文学部学生自治会は学生投票でスト中止を決定、155日ぶりに全学ストを解除した。この記事が投稿される頃はちょうど50年のその日であろう。

 

ある「時代」を表したものとして、あるいは「大学教育」という歴史の帰結として所謂「早大紛争」は重要な意味を持つ。恐らく「シンボル」としての東大安田講堂落城と同等か、あるいはそれ以上の悲劇をこの155日は産んだ。私の生まれる30年近くも前の話であるのに、今なお懐かしさをもって語られる事柄でもある。

 

早大紛争は、狭義には1966年1月18日の一法・教育スト突入から同年6月22日の一文スト解除までの一連の事件を指す。概ね「学費値上げ反対」「学館の学生による自主運営権確立」を叫んで始まった闘争は、大学の自治を根本から問い直し、それを徹底的に破壊した。老侯大隈の志した「早稲田」の終わりと言い換えても良い。あるいはボローニャ大学以降の、脈々とあった大学系譜の断章と言っても過言ではないだろう。実態として既に終わってしまっていたかもしれない早稲田のそれが完全に死んだことは確かである。残念ながら今なお、その「伝統」は死したまま、空虚な字面のみが「都の西北」に謳われるまま留め置かれている。

 

 

早大紛争をどこから語ろうか正直戸惑うところではある。あまりにも巨大なうねりとしてのそれは、語り手にそれの価値を定立させ、明示することを求める。しかし、私は自己の中の価値命題を言語表現において確定させることをひどく嫌う。ある「A」という命題について「善い」とか「悪い」とかいうことによってもう一方の他者を排斥し、あるいはもう一方の他者に排斥される事を病的に恐れる脆さ所以であろうが、しかしそれを置いても語りたい何かが早大紛争にはある。当座事実を列挙していこう。

 

65.12.10  共闘会議、「学館自治運営権」について学校側と団交
65.12.11     大学理事を軟禁の上本部前座り込み、機動隊により強制排除
65.12.20  臨時評議員会、「学費値上げ」を決定
66.1.10    全学共闘会議、「学費・学館問題」反対闘争を始動
66.1.18    第一法学部・教育学部(民青系)スト突入
66.1.20      第一商学部、第一政治経済学部、第一文学部(共闘会議系)スト突入
66.1.21      理工学部スト突入、全学スト完成
66.1.24   全学で試験ボイコット、本部前集会に6000名参加
66.1.29   本部前集会に6000名参加、早実での卒業試験ボイコット
66.2.4  大浜総長、記念会堂で12000名を集め総長説明会、不調に終わる
66.2.8  共闘会議と理事の第一回会談、決裂
66.2.10   共闘会議と理事の第二回会談、決裂
66.2.12      体育会各部と本部占拠学生(共闘会議系)乱闘
66.2.14   国会稲門会の調停を大学側、学生側双方保留(15日拒否)
66.2.15   大浜総長、大隈講堂に教職員1200名を集め、入試業務に支障が出る場合の機動隊投入を示唆
66.2.21      警官隊により学生1200名を構内から排除、学生側3000名を集め記念会堂前で抗議集会、21日夜、学生側再度バリケード形成
66.2.22   2500名の機動隊投入。学生203人検挙
66.2.24   警察官立会のもと、全学を試験関係者以外立入禁止とし、入学試験実施
66.3.6  入試終了
66.3.11   機動隊出動
66.3.25  全学卒業式中止
66.4.4  新学期・全学スト再開・期末試験実施不能に
66.4.13  理工学部、学生投票でスト解除、商学部バリケード撤去
66.4.23  大浜総長、学部長会議で辞意表明
66.4.30  商学部バリケード再構築
66.5.21  商学部、学生投票でスト中止、22日バリケード解除
66.6.4  第一政治経済学部、学生投票でスト中止。第一文学部、学生大会でスト続行を決議。
66.6.8  第二文学部、学生投票でスト中止
66.6.14   第一法学部、教育学部、第二政治経済学部、学生投票でスト中止
66.6.20   第二法学部、学生投票でスト中止
66.6.22   第一文学部、学生投票でスト中止、全学スト終結

重要と思われる事実のみを列挙した。恐らく全ての事象について再度解説が必要であろうし、あるうねりとしての早大紛争はこの字面を追うだけでは決してつかめないだろうが、これ以上を表現しようとすれば、膨大な字数になるため割愛する。

 

正味155日の早大紛争の「敗北」/「勝利」を通して残ったものは、荒れ果てた学び舎、学校運営側-一般教授-学生の間の埋められぬ溝、あらゆる「闘争」の脱力感であったろう。ある意味で泥沼の「勝負」で白黒がついた格好になった。

 

・ある帰結としての早大紛争

早大紛争はなぜ起きたか」この問をミクロな早大内における事情という意味で語ることも、あるいは、マクロに戦後日本における新制大学制度の歪みの発現として語ることも、双方とも間違いなく有為であり重要である。しかし、そんなものはそこら辺に転がっている早大紛争に関する本を一冊読んでくださればいいのであって、悲哀として紛争を語りたいと思う。

 

「大学生が増えすぎた」なんて議論は、それこそ早大紛争の頃から現在に至るまで嫌気が差すほど繰り返されてきた。「教育」という特定階層への作為は、コメニウスのそれ以降、「善い」ものとして大衆化され、『大教授学』より300年以上の時を経てついに大学教育まで大衆に開放された。「やりたいことができる社会」「自らの得意を見つけられる社会」「(ちんけな)夢を努力次第で実現できる社会」を人間は果たして意識的に目指してきたのだろうか、ともかく「大学」は研究よりもっと広範な「就職」という一種の夢実現のための手段に拡大され、手段の目的化というお決まりの逆転現象を経て、「大学合格」がある種の夢物語に変化した。もはや高校までの教育は「大学合格」というあまりにも無様な物語しか、学び手に提供できていない。

 

そんな中にあって、元々一部のために生み出された「大学」を庶民のために焼きなおす行為は難航した。身もふたもないことを言えば、「大学」において通用するある種の学力なんていう特殊技能は誰も彼もが持つようなものでは断じてない。であるのに、そのような技能の存在は受験期-志願者を集めるという「金儲け」に忙しい時-にはひた隠しにされ、あるいはついに合格を成し遂げ学生となってからは「当然持ちうるもの」とされた。早大紛争に対する一教授の反省文に、とびきりの哀愁を漂わせながら、「寄り添うもの、優しく「答え」を授けてくれる「先生」の存在を渇望する学生のニーズを認識できていなかった」というものがある。旧来的な「大学」にそぐわない、大学における学力という尺度では「無能」な学生を受容し、しかし、旧来的な伝統を続けようとする試みはどだい無理であるといえばそれまでである。

 

そのような中で変革の手段として生み出されたのが「産学協同」路線である。大学志願者が激増する社会にあって、要は研究にあっては「無能」な学生を受容するために、それらを社会にとっては有能な人材に育て上げるという「サービス」を提供することで大衆化を迫られた大学は生き残りをかけた。旧来的な研究機関としての「大学」や伝統を維持しながら、しかし「就職予備校」としての「大学」を維持しようと戦後の大学は試みた。というよりは試みざるを得なかった。しかし、両者はある点において間違いなく排反関係にあり、どうしようもない対立の折衷に大学は躍起であった。

 

50年前の早大紛争は、非常に純粋な「歪み」への激昂であり、しかし、どうしようもない自己否定性をはらんでいた。少なくとも大衆運動としてあった頃のそれは間違いなく純粋であったと私は思う。

 

大衆が無学であることは古今東西変わらない。あるいは大衆が感情的であることも変わらない。大衆は常に、その時の感覚、感情に基づいて自己の行動を決定し、であるがゆえに熱しやすく冷めやすい。ル・ボンでも読んでいただければ話は早いが、故に大衆の思いは純粋である。「デモクラシー」というのは妥協の産物以外の何物でもないのだが、しかしこれが相対善として画策されてしまうところに人類の限界があるし、何も私はそこを否定しようとは思わない。

 

 早大紛争が求めたもの、「(産学協同のための)学費値上げ阻止」「学館自主管理」はいずれも古くからの学生自治の幻想にとらわれ、しかし歴史に特記された特殊性を無視した言説である。なるほど戦後の大衆化した大学は、学生に振りまかれるイメージとしての大学ではなかっただろう。入学した学生は、「素晴らしい授業」も「豊かな人間関係」も見出さず、ただモノとして学生を扱い、ベルトコンベアーのように学費で証書という名の御大層な紙切れを発行する機械と化していく大学の実態を見たに違いない。学生の抱く漠然とした不満感・閉塞感・「コレジャナイ感」をアジることにより、早大紛争は大衆運動に昇華した。「なんか嫌なもの」としての大学当局、あるいは学費値上げに反対し、初めての「連帯感」を味わう。あるいは闘争の中で閉鎖的なコミュニティの中で「人間扱い」されることで初めて味わう自己充足感。まさに「何かをなしている感」が活動をあそこまで高めていった。

 

しかし、国家係累にとらわれない大学像、あるいは研究者-学生の有機的な師弟関係なんてものは、それが常に「一部」に向けたものとして画策されたという歴史性は顧みられなかった。端的に言えば「先祖帰り」を唱える紛争当事者そのものが、先祖帰りすれば淘汰されてしまう存在であることは自覚されなかったのである。何より闘争の理論として用いられたのが「マルクス」であるのだから失笑ものである。労働者階級の階級闘争理論を「先駆性論」等という詭弁で脚色し、小ブルジョワジーたる大学生が「ブル階級」に対して、あろうことか大衆運動として「ブルジョワジー支配時代(大衆化以前)の機構にもどれ」と唱えているのである。この矛盾に気づくものはいなかったか、あるいはいたとしても「大衆」に伝播しなかったことは確かである。

 

もはや、後戻りはできなかった。「大衆化」が相対的に善いとされた時代、それを「悪」であると断定的に評価できる人はいなかった。あるいは「大衆化しない」ことに特色を求めようとする人もいなかった。方針はまさに大本営(CIE・文部省)によって決定され、変えられないところまで進められてしまった。どうにもならない歪みに対して地震のように爆発し、同様に「正常化」してしまうあたり、大学紛争は戦後の”大学”変化の帰結であるといえる。

 

もう一点、「発展」の帰結という側面も大学紛争は持ち合わせている。戦後、人類は空前絶後の「発展」を遂げた。旧来的な仕事は続々と失われ、アーレントの言うような「労働」・「仕事」の場は失われていった。人類は、-少なくとも先進国の人類は-未経験の物的飽和状態に投げ込まれた。リオタールの『ポストモダンの条件』が著されるさらに10年前から、そのような兆候はあったに違いない。近代的「発展」、すなわち物的発展の歪みの帰結としても大学紛争は捉えられると私は考える。

 

・未知の世代の所感

少々調べすぎた内容について語る分、今回ほど理解困難な記事も少ないと思うが、脳裏の落書きとしての本来的役割は十二分に果たしているから良いとしよう。

 

結果的に大学紛争が生み出したもの、それはよもや終結直後想定されたような「大学教育の問い直し」やら「発展の在り方の再考」なんてものでは残念ながらなかった。早大紛争終結とともに阿部総長代行が唱えた「学生自治」の思想が残っていたら今の学生も教授もない、くだらない名ばかりの「早稲田」にはなっていないだろう。もたらしたものは倦怠感とニヒリズムと「イデオロギー」への嫌悪に過ぎないとも言える。

 

大学紛争は、あまりにもイデオロギーの悪的なる面を強調しすぎたと私は思う。当時唱えられた理論の相当を知った今でさえ、あの意固地さ・排他性は一切擁護に値しないと確信する。内ゲバや破局への強烈なアレルギーは、親世代を通じて、我々まで受け継がれているようにも感じる。何かと、「○○という意見もあれば○○という意見もある」と逃げたがる年代が形成されてしまったのがその証左であろう。「自分の意見を持とう」なんていう言説は、意見を持つ恐怖感の前に実態を失う。

 

当時を見ても、あるいは今をみても思うのだが、人々は建設的批判に不得手過ぎるように感じる。批判をすぐ人格否定と捉え、あるいは人格否定的言説に流れることを「批判」という論を隠れ蓑に正当化し、意味もない対立と不毛な罵り合いを助長している。批判することと排他性とが結びつき、結局何も変わらない結果に至る。なるほど理論的に、ある一線を持って「妥協する」こと・批判を受け入れることは本質的意味そのものを失うことになるかもしれない。しかしラディカルな変革だけを求めて、「成功」と「失敗」に白黒つけることによって、社会を動かす理論は、あまりにも「失敗」の代償が大きすぎるのだ。

 

 

正しい喧嘩ほど、美しさを伴うものはない。スポーツならいざしらず、正しい喧嘩を行える人が世の中にはあまりにも少なすぎる。喧嘩であるのだから、あるときには暴力的であっても良いだろうし、あるときには膝を突き合わせての激論をしてもよい。ただ正しい喧嘩であるならば、最後に両者が納得感を持たねばならない。公平な喧嘩の場作りに気を配り、喧嘩する双方がお互いを認め合い、正しく喧嘩し、勝ち負け以上の何かを生むこと。このことに気を配らねば、どんな運動もうまくは行かないと、50年にあたって思う次第である。