ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「大学」はどうあるべきか

以前、こんな記事を書いたことがある。


私学の雄はどうあるべきかなんてサブタイトルをつけながら現状を批判し続けるだけの記事であったが、もう少しまじめにあるべき論を語りたく思う。ちなみに私の興味分野は本来的には、「高等教育」というよりは「中等教育」にあるため議論が不正確であるかもしれないが、ご容赦いただきたい。

 

・前置き:「大学」とは何か

「大学」とは何かという広範な問を発するとき、我々がどこまで遡ればいいかは定かではない。当座、学校教育法第83条から引っ張ってくるとすれば以下のようになるだろう。

第八十三条  大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
○2  大学は、その目的を実現するための教育研究を行い、その成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。

 

 

本来的な大学という学問探究の場にあって、「自治」の思想が入っていないあたり文部省も狡いことをすると思うがともかく、大枠としての大学はこのような言に集約されると思っていいだろう。

 

大学の祖をどこと置くかだけでまた面倒なことになるが、ここでは「アカデメイア」とすることとする。(おうおうタキシラの僧院はどうしたとか、やっぱりボローニャがナンバーワン!みたいな議論もあるがまあWikiの「大学」の項が相当充実しているのでそちらを見てほしい)プラトンによってB.C.387に開かれた学問の府は、算術・幾何学天文学、それらの教授の後に哲学を講じた。授業は、一人の「教授」を学生が囲み純粋な師弟関係のもとに行われたらしい。(というかアカデメイアを写した絵画からはそう推察できる。)ちなみに同様に有名なものにアリストテレスがB.C.335に開いた「リュケイオン」がある。いずれも「ギュムナシオン(体育場)」の地に建てられたというところは興味分野に繋がるのであるが、ここでは保留する。A.C.529、東ローマ帝国ユスティニアヌス1世によって両校とも閉鎖された。この理由が「非キリスト教的学校の閉鎖政策」によるというだけで塩野七生おばーちゃんと自棄酒できそうである。

 

ウニベルシタス(総合大学)としての「大学」の祖は、「ボローニャ大学」であるらしい。パリ大学にしても同様であるが、学問探求者が権力者に対して自己の権利を主張してできた「ギルド」的なものが近代に至るまで続く大学の走りである。学生には法律上、「準聖職者」としての特権が与えられ学生の「ストライキ」は街を出ることによってなされた。中世大学とキリスト教なんてテーマを真剣にまとめると本が一冊書けそうであるが遠慮しておく。

 

近代大学のエポックとして2つ大学を挙げるとすれば、ナポレオン・ボナパルトによる「帝国大学」とフンボルトによる「ベルリン大学」がある。前者は、国家が国民に教育を施すという概念の延長として建てられた「大学」であり、後者は国家からの「学問の自由」を標榜し、「研究」と「教育」の一体化を図った学校である。概ね「国立大学」はフランス型、「私立大学」はフンボルト型であろう。(ちなみにここまで概ね「受験知識」であるから早慶一橋あたりの世界史受験生はきちんと記憶しよう。)

 

さて、西洋教育史的概説を長々としてきて要は何が言いたいかといえば、大学とは本来的に「権力から独立した学問探究の場」であるという認識である。国家権力から、キリスト教からいかに西洋の大学を通じた学問が脱皮し、あるいは迎合し、「社会」(この語の射程は置いておいて)の発展に寄与したか、やはり歴史を辿らねばわからない。そりゃそうだと言えるかもしれないが、学校教育法から抜け落ちた大学の歴史的概念はこのような歴史の議論を持って補完できたように思う。

 

・大学の自治はどうあるべきか

ここからは、全て日本の大学に関する議論とする。

 

「大学の自治」が広く社会に問われ、曲解され、なし崩しになった時期がある。所謂「大学紛争」がそれである。

 

「大学紛争史」を語るという行為そのものが不毛であるからあまりおおっぴらには語らないが、まあだいたい1960年代の「事件」(?)であると捉えていただいて問題ない。東大安田講堂「落城」には今更ながら歴史という文脈に在るイメージとしての「悲劇」を感じざるを得ないが、全国で学生が、「大学の民主化」やら「学生による自治権」、「産学協同路線反対」やらを求めて戦った。「斗争」の帰結として「公権力と結びつく大学」の存在が浮き彫りになり、日本における「大学の自治」は崩壊したようにも見える。

 

本来的に大学とは、対外的には権力から独立した「学の独立」を標榜すべき環境である。そして内的には、学生-教師間の師弟的紐帯のもとに、諸問題を相互の話し合いによる「自治」を持って解決し、相互の研鑽を通じて学問探究を行う場である。この両者を追求することがやはり、大学の、少なくとも「私学」の役目であると考えることは自然であるようにも思う。

 

マスプロ教育の解決が叫ばれてはや50年になる。大学は大衆化し、大衆化した「大学」は旧来的な大学の姿勢を維持できなくなっている。というよりは、大衆化し実態として変質した大学に対して、旧態的な「大学」観を当てはめようとしてしまうところに学問者最大の悲哀がある。多くの大学はもはや「就活予備校」と化し、高度化する社会にあって9年で収まりきらない「必要技能(?)」の習得を手助けする場となり、公教育の延長として実学に資するしかなくなっている。大衆にとって大学は、「○○大卒」を証明する紙切れと脆い自尊心を得るために云百万円も放り込む場であり、あるいは「学生」という特権身分-モラトリアム期間-を買うための保証機関に成り下がっている。競争社会の一つの帰結として、ある画一的な学力観のもとに全国民を尺度化し、選別し、格差を再生産する先鋭に大学はなってしまっている。「大学紛争」は変化してしまった/しまう大学組織に対し、旧態的であれ!と叫び、ついに敗北した闘いとしても捉えられるかもしれない。

 

こうした状況にあって、「大学改革」も「大学の自治」も大衆には無関心な事象に成り下がる。大学がどう変わろうが、多数者は「楽」な授業を取り、割合に興味のある何かを小手先でこなし、「優良」とされる企業へ就職できればよいのだ。その過程にあって、しかし、「学生」としての特権を保持し、好き放題楽しいことをすることを求める。「大学生に勉強させよう!」なんて議論は、本来的に特権階級としての「学生」が大衆化してしまい、それを維持するコストに対してベネフィットが極端に低下した(ように見える)結果からなされる議論であり、高尚(?)な理想論・教育論に基づいたものでは断じてなくなってしまっている。

 

さて、随分脇道にそれたようにみえるが、では「大学の自治」はどう画策されるべきかの議論に戻ろう。このような状況にあって、自治には2つの可能性がある。1つ目に、サービス向上の手段としての自治である。もはや大学は創造の機関からサービス機関に移り変わってしまった(というより後者的側面が大半を占めるようになってしまった)このような場にあって受益者である学生の意見を「聞く」姿勢はより良いサービス提供の一手段として中々に有用であろう。これが「自治」であるかはおおいに疑問であるが、学生の意見を大学側が集約し改善していく姿勢はやはり重要であるようにも思う。何やら参加している感というのは案外重要なものである。

 

次に、やはり公権力からの自治というところがある。変質してしまった大学であってもやはり、そこに私は最後の砦としての「誇り」を求めたい。なるべく学内問題は学内で解決する機構が整備されるべきであり、「思想良心の自由」「表現の自由」「学問の自由」は大学という機関によって保証されるべきである。また、大学は益々高まる「実益に資する奉仕機関」としての大学像に対抗し、非実学的・ある種象牙の塔的な学問をも保持し、広く文化・文明に資する姿勢を保持してほしい。実利的・即物的になる社会に対する最後の砦として、大学は自立して欲しいと切に願う次第である。どうやらこの点は現早大総長の頭からすっぽり抜け落ちているらしいが。

 

・「学問の府」として

「大学は自由である」という欺瞞がある。なるほど一面的には自由であり、「遊びたいものは遊べる」環境はあるだろうし、「学びたいものは学べる」環境もあるだろう。個人的には両者とも生ぬるいように感じているから欺瞞としたのだが。

 

特に後者について、「学びたいものは学べる」環境の整備をすべきというのが本項でいいたいところである。非実学的学問の保持については前項で述べたとおりであるが、学問の府として、学生-教授間の師弟関係を創り出しうる環境を保持、提供、推奨すべきであるというのが私の意見である。

 

大学での学問において、「教科書」がある分野などすぐ過ぎ去ってしまう。定説のない世界、自己の思想において他者の言説を総括し乗り越える営みこそ学問の一側面であるが、この手法は一朝一夕で身につくものではない。これを学びたいものに教授できる場、それも「年齢」や「学年」などというくだらない係累から解き放たれた場の整備が求められる。

 

「学問の府」として重要なもう一点に研究の場として有意義であることが求められる。「総合大学」としての大学であってもやはり特殊化の憂き目は免れないだろう。ある分野に特化して予算をかける姿勢も必要であるが、それが常に「実学」に偏り「非実学」的学問についてそれが圧倒的に不足しては本末転倒である。真の意味での学際性を担保するためにもこの点には十分配慮しながら、やはり「特色」を作り出していくことも重要であるように思う。あるいは、大規模大学は、「特色がないこと」を特色とすることもありかもしれない。いずれにせよその特色は欺瞞であってはならないし、そういった意味で研究者-学生双方に誠実である姿勢が学問の府に必要であるに違いない。

 

ある古典的な大学の品位に関する幾つかの指標がある。「図書館が偉大であること」「大学に関する資料館があること」「学内文化が醸成されていること」などがそれである。ある意味で「人文偏重」時代の産物と呼べるかもしれないが、人文オタクとしては中々強調したいところではある。温故知新、古きを以って新しきを知る姿勢もやはり必要であろう。

 

・ある「発展」にむけて

 何を以って今より「発展」であるかは諸議論ある。短絡的に社会に資するようにより最適化することもやはり発展であろうし、あるいは短期的視点をすて、マクロな視点で全世界的な意味での社会に資するように発展していくこともやはり発展であろう。どちらが善いかという価値命題をここで提示する気は毛頭ない。

 

ただなんにせよ、変質していく社会・大学に対してある「思想」のもとに誠実に発展を志向していくことこそ今求められることではないか。象牙の塔であっても良い、というか象牙の塔であって欲しいという個人的願望はあるが、それらを志向した発展の思想を持ち続け、それらを歴史と照らし合わせながら先を見つめていく視点が必要であるといえる。

 

ひどく抽象的な良い話にしてしまうのが癖であるが、これで筆を置く。まだまだ何かと論じられるがここらへんにしておこう。