ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

大学生活に疲れてきた君へ

お前また大衆迎合に走るのかとお叱りを受けそうだが、そろそろ世に言う5月病の季節であるし一本書いてみたくなった次第である。

とりあえず未読の方も大学生活に疲れてきた方も、以下のポストを見返していただけると嬉しい。恐らく懐かしい気分になるはずである。(くそ長い上に特に関連性はないので読まなくても全く問題ないが…)


「大学生活がつまらん」「人生つらい」「今日も自主全休にした」なんて声が各地から聞こえてくる。GWが終わって大学から人が減り始める頃、大教室では空席が目立つようになり、対して学生会館や居酒屋が新歓期とは別種の賑わいを見せ始める。魅力的な友人やかわいい異性との新しい出会い!専門的で知的好奇心を掻き立てる楽しい授業!なんて期待は大体の場合打ち砕かれ、定まらない自分像をうちに秘め、外面にばかり気を使う自分に気疲れする。「俺なにやりたかったんだろう…」「そもそも俺ってなにもんだよ」みたいな問いも自ずから生まれ、ちょこっと勉強をしてみたり、読書に逃避したり、アルバイトに没頭してみたりしてもその空虚は埋まらないし、そうして始めたことは大抵続かない。八方塞がり、手詰まりである。こんな状況の画面の向こうのあなたと、労苦をわかちあうためにこの記事を書いている。

 

 

「充実した大学生活」とはなんだろうか。授業は適当に寝て過ごし、成績はそこそことり、サークル活動に精を出し、リア充になり、たまに飲んだり羽目を外したりしながら友達たくさん、ワイワイ過ごし続けることだろうか。あるいは、「出会った全ての人に感謝!」「圧倒的成長!」と叫びながら、学生という地位を活かして有名人(?)を歴訪し、意識高い系として自分探しすることであろうか。それとも、戦前の大学生よろしく、学友と知的な会話を楽しみながら日々勉学に励み、質実にして学識に満ちた一学徒として身を立てることであろうか。いずれにせよ、こんなステレオタイプな学生生活を送っている諸氏は間違いなく充実した学生生活を送っているといえるだろう。

 

確かに、大学にいると上述したような充実した大学生活を送っているように見える学生が多い。それに比べて自分は…と思い悩みながら、外面ばかり取り繕うようになる。しかし、本当に皆ステレオタイプな学生生活に満足しているのだろうか。

 

大学でいつも友達と一緒にいるあのキラ女も、「議員インターン」とか「カンボジアにボランティア」とか常に頑張っている意識高い系も、俺○○の勉強で忙しいんだとか秀才ぶってるいけ好かない奴もどこかで迷い悩んでいるに違いないと私は確信している。我々は誰かと真に分かり合えると無邪気に信じこむには年を取り過ぎた。口をついて出る「自分語り」が作る自分像と、実態として過去から今までの人生を積み重ねてきた「自分」の違いに気づかないほど我々は幼くはない。一部の昔からの親友を除いて、「私」を理解してくれると信じうる友達を新たに作ることはこんなにも難しかったのかと今更ながら実感する。恐らくほぼすべての大学生も同様であろう。大学生は本質的に孤独である。

 

 

さて、原点に帰って考えよう。今我々に足りないものはなんだろうか。「信頼できる友人」だろうか、「わがままをたくさん聞いてくれる都合のいい彼女」だろうか、あるいは単位か、出席か、日々の充足感か、お金か、時間か、余裕か、よっともか、あるいはそれら複数か。我々の欲望という際限なき醜悪は次々に足りないものを作り出す。もたざる自分に焦燥感を押し付け、持てるものへの嫉妬の念を植え付ける。欲しがるあまり足元が見えなくなり、ますます泥沼に落ち込ませていく。そこから抜け出すためには、理性の力を借りた開き直りか、徹底的に泥沼に落ち込んだ先に地獄を見るかしかないだろう。

 

ここからは、自己啓発本()よろしく、私の開き直り方を記す。この稿の主題はもはや果たしたから、後は自分語りに走るのみである。

 

まず、欲望に飲まれてみるのも悪くはないと開き直った。寝たいと思えば寝るし、食べたいと思えば食べる。手近にこなせる欲望を果たしとりあえずそれに飽きてみた。あるいは自己承認欲求を満たすためにブログを始めたりもしている。自暴自棄ではあるが、案外悪いものではない。

 

次に、難しいことは難しいのだと認識することにした。私を知ってもらうこと、人を信頼すること、居心地の良いパートナーを見つけること、お金を稼ぐこと等々、難しいことはたくさんある。我々がいくら望んだって、幻想を並べたって届かないことも多い。我々は意図的にその事実から目をそらそうとし続けるがいい加減ちょっとは向き合わねばならない年頃である。事実から逃げることにも相応の労力がいるものである。いっそ向き合ってしまったほうが楽なのだ。

 

最後に、自他を信頼することにした。自分は恐らく人のことをちょっとは分かってあげられているだろうし、他者にとって何者かであろうと思い込むこととし、あるいは他者は自分をきっと理解してくれていて、自分を何者かとしてみてくれているだろうと強引に信頼することにした。私は案外世の中なんとかなる論者だから、この点もすんなり通過できたのかもしれない。自己を恐れずさらけ出しても他者は案外受容してくれるという経験則もある。

 

 

言葉に表したことを実践できるならば世話はない。恐らく充実した大学生活は各々次第であり、この「各々次第である」という部分が大学生活最大の困難であり孤独な点である。どんなに過去に戻りたがったって、どんなに未来に憧れたって今以外に我々は生きられない。あるいは、どこかでそれをわかってしまう自分が一番の絶望の要因であるのかもしれない。ともかく、とりあえず「欲望に従ってみる」「それを正当化してみる」ことから始めるべきではないだろうか。せっかく金で買っているモラトリアムである。大抵の失敗は美しい思い出に吸収されるに違いないのだから。

 

 

(私が私の今を自己正当化するために書きつくった駄文たち)