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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

教育にできることをまじめに考える

サークルの新歓行事も終わりに近づき、着々と新入生のフォロワーが増えていく中で果たしてブログを続けるメンタルが持つのか自分でも怪しいが、とりあえずまだいけるはずである。今日は「教育ができること」をまじめに考える。(ちなみに今教育とうったら敎育が先に出てきたあたりで自分が普段何をやっているかお察しいただけるかもしれない)

 

「教育万能説」や「教師万能であるべき論」の信者は大変多い。教育にはあれもこれもできるはずだ!と際限なく教育に役目を押さえつけようとする論は多いし、教師たるものあれもそれもできるべきだ!と教師を万能超人聖職者に仕立てあげようとする論で世の中溢れている。あるいは、「教育」教とも言うべき、「教育は超大事!まじいいこと!お金も人的資源もたくさんかけるべき!」なんて宗教に入信なさっている人も大変多い。私の通っているW大学のチベット学部でもほとんどこういう論理ばかり使われるので、毎回鬱々とした気分になっている。聖域なき批判的探究こそが学問探究における第一の姿勢だと拙いながら信じているのだが、教授レベルでもそうはいかないらしい。

 

 

教育の善悪論の話を始めるとそれだけで一昼夜かかりそうなので、今回はとりあえず「教育万能説」だけでも否定したい。個人的に教育ができることはそう多くはないと踏んでいる。否、確かに可能性としていろいろできるが実践としてできることはそう多くないはずである。

 

まず、本稿の読者層はほぼほぼ大学生であると信じているので皆さんに問うが、「高校時代」の思い出の筆頭はなんだろうか。そしてもう一つ、高校時代の勉強で、つかわなくなった知識-日本史や世界史のくっそ細かい単語や数学の公式等-をどこまで正確に記憶しているだろうか。

 

前者について、「勉強」と応えるマゾヒスト、そして後者について今のほうが昔より諸分野について詳しいなんていう学問オタクはいいとして、恐らく、一般的に前者は「部活・委員会・クラス行事」のいずれかであり、後者は「あまり/ほとんど覚えていない」という答えになるはずである。前者が「受験」になってしまう人は間違いなく現代学校教育の被害者であるので、なんというかご愁傷様である。

 

そして皆さんにもう一つ、あなた方が10年、20年後、同窓会で集まった時にどれだけのことを覚えているだろうか。恐らく「あなた」という自己形成に役立ったと、あなたの「人生」という物語の中で強調的に(恣意的に)記憶されている諸事以外の全てを忘れているはずである。それは、自分もその年にならないと本当にはわからないが、ディティールのぼやけた何らかの「教育的効果」を求めうる事象であるはずだ。恩師との会話、クラスメイトとの馬鹿話、部活動・委員会活動の記憶…そんなものなはずである。

 

 

長々と前置きの問いを書いたので、最後にもう一つ問いたい。皆さんが受けてきた「教育」の中に秘められた(と想定される)意図された教育的効果のうち、皆さんが10年後思い出しうるものはどれだけあるだろうか。私はほとんどないと断言する。

 

 

学習指導要領と学習指導要領解説という死ぬほど長い文章が有る。日本の学校教育の目的と手法例を死ぬほど書きつくった強そうな文章であるが、あれを読むとどれだけ教育が期待されているか、あるいはどれだけ教育に可能性が秘められているか端的に分かる。そして、現場の先生方の多くは、その指導要領にさらに自己流を加え、なんとかその目的を達成し、善い人格を作ろうと必死に努力なさっている。(この必死さが最大の仇であるがここでは論じない)

 

しかし、我々が覚えていくのは、そのわずかな一部分である。例えば、「あの先生、僕らのためにあの時、こんなことしてくださったよな」とか「あの授業のあのクソみたいな覚え方面白かったよな」程度である。逆に言えば、あとから見て、教育を受けてきた我々にとって最も重要な記憶(あるいは効果)というものはその程度のものなのだ。

 

 

さて、上っ面をなぞるような抽象的な「教育限界説」を唱え続けてきたところで次にうつる。本題にある通り「教育にできること」の考察である。私が考えるに教育にできることは以下である。もっとあるかもしれないが、とりあえず3つがちょうどいいのでこうしておこう。

・体験の提供

・大雑把な学問的網の目の認識

・都合のいい自由の提供

 

まずひとつ目、体験の提供についてであるが、これが最重要であることと私は考える。私の専門分野に片足を突っ込みかけるので適当なところで引き上げるが、皆さんに残る思い出の第一は、恐らく様々な体験の記憶である。体験にもいろいろあるから例示すれば、「クラスメイトとの楽しかった体験」「何かに全力で取り組んだ体験」「(何らかの)成功体験」「「私」を第一義に考えてくれる他者の存在体験」「学校や家で食べた美味しいご飯の思い出」などなどである。この全てが極めて重要な体験であるし、あるいはこれ以上のものを教育は残し得ない。そこからいくら画一的な教訓めいたことを明示的に教え込もうとしたところで、一部の教育にハマっちゃうやばい人以外はまず反応しない。そんなことしなくても恐らくみんななんとなく感じているはずなのだし、その程度で良いのだ。この「体験」の質や量、方向性はもっと画策されて然るべきであるが、効果に固執すべきでは断じてない。

 

次に、大雑把な学問的網の目の認識である。「体系」という単語を使わなかったのは完全に気分であるが、何か違う気がしたので「網の目」とした。日本における一部のオタク向けの変態育成教育を除いて、高等教育まで履修したところで、我々は大雑把な網の目程度の認識しか恐らく得ることができない。「有機的な知識のつながり!」とか「物事を多面的総合的に判断するための基礎となる確かな学力の育成!」なんて謳ったところで実態としてはつなげるべき依枝づくりさえ終わらない始末である。そんな意識の高いことを求めるのは変態育成教育に任せれば良くて、大半の人に施されるべきはまさに「読み書き算盤+α」程度がせいぜいであり、逆にこれくらいしか教育は残し得ない。それ以上はまさに、よくわからない、しかし蓋然的に良さそうな体験の提供の部類に入る。なぜ網の目としたのか内容が不明瞭だが書くのが面倒なのでこれくらいにする。

 

最後に、都合のいい自由の提供である。言い換えればモラトリアムの提供と言っても良い。教育という一生涯に対する作為の中で、特に若年期のみを見れば、「学徒」であることは「職業」として認められるほどある社会的地位を占める。不完全な競争、なあなあにされる能力差、誰かが背負ってくれる金銭的社会的責任等、我々にとって都合の悪い部分を抜き取り、都合よく形作られた自由だけが我々に提供される。生徒/学生はその自由の中で、多くを学び、体験し、記憶する。この自由の教育効果についての認識、あるいは自由を形作る覚悟のようなものが特に日本の教育現場に不足しているように感じる。

 

教育は大きな可能性を秘めているがゆえに、それを行う者、あるいは受けるものそれぞれの能力に多くを依存する。私は理想的な素晴らしい教育を行うことのできるような人格者を、教育のみに縛り付けるべきであるとは全く思わない。あるいは枝葉末節の可能性を実現しうるにとどまる教育施設を普及させるために、実際の経済対策や福祉政策を削るべきであるとも思わない。

 

少なくとも公教育を論じるとき、そろそろ「教育にはこんな役割も有る!」的議論はやめて、「せめて教育はこれくらいすべきなんじゃないか」的議論にシフトすべきである。あれもこれもの変態育成向け教育を論じたいなら、対象者をきちんと認識すべきである。