ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

批判のお作法

世の中はたちの悪い批判もどきで溢れていると、常々思う。特にひどいのが2chTwitterで、目を背けたくなるような罵詈雑言が日々行き交っている。上記のようなゴミの掃き溜めでどんな議論が為されようが正直どうでもいいが、真剣な議論の場でさえしばしば言葉尻だけを丁寧にした同質の批判(とさえ呼べない暴言)が交わされていたりするのだから目も当てられない。批判にだってお作法があると私は思う。

 

まず、「批判」と「非難」は違うという当然の認識から始めるべきである。辞書的に言えば、「批判」とは物事に検討を加え、判定・評価することであり、「非難」は、欠点やあやまちなどを責めとがめることである。「批判 非難 違い」などでググっていただければ相応の頁があるが、批判と非難の違いは、その生産性にある。批判は常に、物事への懐疑→発展というある種ヘーゲル弁証法的思考を伴うが、非難は否定のための否定であり、ただ欠点をあげつらうだけで、内在的に「私の論のほうが優れている」といった優越意識や、あるいは「なんかお前のそれ気に入らないんだけど」というような非論理性を潜ませる。この点については前提として認識すべきである。

 

お作法を書く前に、批判の定義についてもう少し真剣に考察しておく。辞書的意味は前述のとおりであるが、要は現状をまず「否定」して、両論を比較することで両者を相対化し、それらの善悪や限界を分析し、発展的に思考する事こそが批判的思考、あるいは単に批判である。「批判」はとかく悪的側面をあげつらうことばかりを指すと取られがちだが、本来的には「否定」(あるいは懐疑)の過程を辿ることで善悪両面を知悉する行為である。

 

さて、上記を踏まえて批判のお作法を箇条書きにして考察する。

 

  1. 批判と非難を履き違えない
    この点が、恐らくお作法として最も重要な側面で、以下の論の全てを内包する重要な留意点である。思考法としての、あるいは表現としての「批判」は決して「否定のための否定」を行う非難ではない。それは常に発展を志向した思考であるべきであり、この点は確実に留意されなければならない。以下はほぼこの点を確固たるものとするための具体的な留意点に過ぎない。

  2. 「全否定」は絶対に行わない
    要は「否定のための否定」を絶対に行わないということに尽きる。世の中には、恐らくあらゆる側面から善的(あるいは悪的)である絶対善や絶対悪なんてものは存在しない。全て物事には、何らかの善さが内包し、あるいは何らかの至らぬ点があるに違いない。全否定は、それを行った瞬間に、その批判の論理性を消失せしめる致命的な思考である。循環論的言い方をすれば、全否定は全否定されるべきである。

  3. 論の歴史性を無視しない
    原理主義にありがちであるが、とかく論の歴史的経緯を無視した批判もどきが多い。あらゆる思想には、それを創りだした人々の歴史的思想的経緯があり、どんな激烈な改革にも過去との連続性がある。あるいは、そういった経緯からあらゆる思想はそれらに拘束され、その限界の中で創りだされていると言える。これらの本質的な性質を無視した批判は、やはり非論理的であり、ゆえに慎むべきである。

  4. 人格否定に繋げない
    あらゆる思想は、個々人の「人格」に依拠する。すなわち、批判のための否定を行うということは、取りも直さず、他者の人格の一部を意識的あるいは無意識的に否定することに繋がる。ここまでは批判の思考法上仕方ないことであるが、その後の分析過程で、発想者の「人格」に足を取られ論の本質を逸した批判が多くある。こうした論は、批判という思考法が生み出す生産性を損なう不毛な行為である。

  5. 自己のバイアスを「一般論」に内包させない
    思想に「人格性」が伴うのであれば、当然批判的思考を行う「私」についても人格性が伴う。何も批判を行う動機が「あれなんか気に入らない」や「あいつの言うことだから批判しなきゃ」であったっていいと私は思う。ただ上述の人格否定に繋げないということにも関係するが、このような動機、あるいは批判者の思想に囚われすぎるあまり、「非難」となってしまう論や、批判者が自己の思想を正当化するためにそれを「一般論」として用い、結果的に生産性を生み出さない不毛な議論になることも多い。分析において、自己のバイアスをしっかり認識したうえで、両論を見つめる視点が必要となる。

  6. 必ず論理的であろうとする
    再三繰り返すが、あらゆる「考え」には何らかの主観が伴う。別の言い方をすれば感情などの非論理的な思考が内包される。批判を行う上で必ず留意すべきは、常に論理的であろうとする姿勢であり、批判する論(あるいは論者)だけではなく、批判を行う自己の論や自己についても相対化して分析しようとする姿勢である。

  7. 現実に常に配慮する
    最後に、これもまた重要であるが、両論の対立の中で論理的に生み出された論が結果的に夢想的になってしまうことが多い。「両論の対立」という二項対立性に縛られるあまり現実と理想の区別をつけられなくなる理論が多いように感じる。理論は理論、実践は実践であるが、しかし両者は常に往復的に思考されるべきであり、どちらかに固執すべきでは決してない。

 

思いつくままに30分で書ききってしまったが、とりあえず上記さえ留意すればそれなりにまっとうな批判になるのではないかと思う。別件としていわゆる「くりてぃかるしんきんぐ」の重要性についても逆説的に示せたかと思う。全肯定は全否定の裏返しであり、自己の思想は常にむりくりの相対化の努力により磨き上げられるべきである。デカルト懐疑主義を磨き上げ、現象学的還元まで純化せよという気はないが、少なくとも何かを学問的(あるいは体系的)に思考しようとするのであれば、クリティカルシンキングは大変に有用であり、重要である。