ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

現代のエリート論

Twitterがサークルの新入後輩諸氏にフォローされ始めてますますこのブログの存在が浮いていくのを感じるが特に気にしないこととする。

 

のーぶれすおぶりーじゅなんて言葉がたまに流行る。字面は非常にかっこいいから、中二病をこじらせたDK(男子高校生)あたりが使いたがる単語であるし、実際、これを果たした幾多の英雄像は男どもには中々かっこよくうつるものである。私が特に気に入っているのに二度の大戦時の英国貴族層の活躍がある。いざお国の一大事ともなれば我先にと志願し前線に飛び込んでいった英雄譚は男子の心をくすぐるにぴったりだ。実際彼らの戦死率は他よりも圧倒的に高かったという。

 

本稿で私は、短絡的に今の日本人にはこの「のーぶれすおぶりーじゅ」がない!なんて議論をするつもりは毛頭ない。ただ「エリートはエリートであろう」という程度の問題提起をしたいがためにこれを書いている。

 

ポストモダンは無節操になんでも相対化したから、「教育」というある種善性の塊のような作為についても相対化し、その悪的な面が強調された時代がある。「学校」という組織に限って言えばヒドゥン・カリキュラムの提起がそれであり、実際の事象で言えば「不登校」「校内暴力」「いじめ」などもその語りの一部に含まれなくもない。あるいは、公教育が実質的に拡大され、多くが後期中等教育高等教育に臨むにあたって「持てるもの」と「持たざるもの」の差異が顕在化し、メディアがその差異を煽ることにより、不毛な「受験戦争」が始まったということもある。以前指摘したようなポストポストモダン的潮流をこのような教育問題の文脈に当てはめれば、「フリースクール公認」や「入試制度の多様化」、「推薦入試の拡大」等はポストモダンを乗り越える思想として特筆に値する。ここでな~んにも勉強してない思想史的お話をしても仕方ないので次に進む。

 

要は、教育は太古の昔から内的には生徒-教師の、あるいは生徒-生徒の権力構造を内包し(いわゆるスクールカースト等)、マクロ的には資本主義的な「持てるものはますます富み、もたざるものはますます失う」の格差拡大作用を有していたということである。ある「知識」や「技能」があって、その知識や技能があるかないかで人間が短絡的にランクづけられ、それらがなければ不利になる社会が再生産されていく。それらを持つものは、学校という権力組織の中でも、あるいは実社会においても有利であり、それらを持たざるものは常に下層にあって埋没していく。一面的に教育にこういった側面があることは事実であろう。

 

何度も確認するが、「だから教育はくそ」と言う気も、あるいは「格差は是正されるべきだから○○すべきだ!」なんて議論をする気はない。そのような議論は、だいたいにおいて語り尽くされているし、下層へのアプローチだけで解決する問題では決してない。私は、どちらかと言えば「エリート意識」が必要であろうと考える。

 

教育の格差構造とエリート意識について論じるために、拙い自分語りをさせてほしい。私は、23区のそれなりの地域に生まれ、私立の中高一貫校に通い、とりあえず某W大学に入学した。家庭も円満、経済状況も国の基準によれば高所得層ではないが、特別困窮しているわけでもない。私にとって善いと親が画策したもので、私が望んだものは恐らくなんでも与えられているであろう。恵まれすぎていて神様に感謝してもしきれないくらいである。

 

上記のような環境で生きてきて、私はただの一度も「上位層」に入ったとは思ってこなかった。特別成績が良かったことなど1度もない。少なくとも私の属していた「クラス」という共同体の中で私の学習の偏差値が60を超えたことは恐らくない。(教科単位であれば一応ある)私は周りの「当たり前」の環境の中で「当たり前」に生きてきたつもりである。そうしていざ大学まで入って、はたとそれは「当たり前ではなかった」と気づいたわけである。

 

こういう場であるから率直に言おう。私は、少なくとも同年代では、ある側面において「エリート」の一端に入っているであろうと確信している。私は、こんなくだらないながらも長ったらしい文章を自分の考えのもと語ることができるし、並の英文程度ならばそれなりに読める。難解な日本文や、明らかに読者層が限定される専門書の類も一応理解し咀嚼しうる(あるいはしている)と思い込んでいる。少なくとも「読み書き」の分野において、あるいは中等教育課程までの日本におけるカリキュラムの到達度といった点においてエリート層であろうことは間違いないと思っている。

 

このような意識が、とりあえずW大学生にあるかといえばそうは思わない。私のように周りの「当たり前」に合わせていたら合格してしまった不真面目は別として、だいたいの学生が出身校でも「成績」という側面では上位層を占めていたエリートたちである。あれだけ七面倒臭いクソみたいな問題に正当をだせる学生たちだ、少なくとも「読み書き」の面においてエリートであることは間違いない。しかし、彼らは恐らく、自らのそうした能力が「優れている」という自意識を素直には持てないでいるように感じる。

 

エリート意識が、選民思想に繋がってはいけないし、「自分すごいんだぜ」アピールをしておいて実際そうでもなかったと相手にとられるリスクを考えれば、そんな自意識はもちろん封印したほうが賢明であるに違いない。しかし、この点においてリスクを恐れて縮こまっていては、健全な社会形成にはおおいに有害であると思う次第である。

 

所謂神目線であるが、ある特定の知識や技能について持たざるものは、それについて「語る」力すら持たない場合が多い。「○○先生がこういっていたからこれはダメなことなんだ」や「○○さんはできるからいいけど、ぼくはできないからいいんだ」と他律的な語りやあきらめを持っている場合が多い。そして、あまり好きな思考法ではないが、「○○さんは☓☓だからできるけど、僕にはこれが欠けているからできない、だけど僕には○○さんよりも□□ができる」といった現状分析的、あるいは自己肯定的思考に発展していかない。無意識に○○さんと自分や○○先生と自分との「序列」を心に刻みこみ、それを打破しようという意識すら持たなくなる。

 

あるいは、それを打破しようとしても、そのロジックがどこか借り物的で自己によって十分に咀嚼されていないために論理破綻したり、あるいは現実から遊離したりして、結局うまくいかないこともある。S○ALDsの末端層等はこれであると思っているが、要は彼らだけでは、現状は打破できないのだ。

 

ここで必要なのが「エリート意識」である。我々は少なくとも、学ぶ力も環境も時間も手にしているし、それを自己の中で咀嚼し論理だて、語り提起していく力も持っている。何も旧来的なのーぶれすおぶりーじゅを果たせと言うのではない。焼き直された階層社会(階級社会)にあって、自己と他者の立ち位置をもう一度知悉し、相互に利するような行動をすべきであると言いたいだけなのである。すなわち、ある特定の「知識」や「技能」を持たざるものからその考えを吸い上げ、それらも勘案しながら、しかし社会は我々が担っていくのだという強い自意識を持つべきだという提起である。(代弁の手法やその他諸々の方法論、選民思想とエリート意識の別や健全な階層についてなど論じる点は山程あるが今回は概説に留める。)

 

 

誰がどうごまかそうが、先進諸国では、厳然とした階層が再生産されている。社会を健全化し、歪んだ格差を健全な差異に焼きなおすためにも、エリート意識は重要であると私は考える。しかし、この手の議論はタブー視され大手を振って語られないし、馴染めない人も多い。「戦後」が終わって久しいが、こういった側面についても再考されるべきであろうし、再考される環境づくりを、それこそ「教育」が成していくべきであろう。