読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

ポストポストモダン社会のモダニズム

雑記

実がないだけ雄弁であるとは、シラノ・ド・ベルジュラックの一節であり、学なき雄弁というのは、デマゴーグを導くという意味において恐らく最大の愚行の一つであろうが、それがしたいがためにこのブログは成り立っているのだから仕方ない。

 

ポストモダンの条件』がリオタールによって著されてからはや35年を超えた。今まで社会に「正しさ」を与えていた「大きな物語」は相対化され終焉を迎えたとされる。絶対なき時代に生まれるニヒリズムはもはや社会全体を覆い、「さとり世代」を生み出したとも取れる。

 

現代の少なくとも大学生に至るまでの学生、あるいは生徒にとってポストモダンの思想すら過去のものと化している感は否めない。彼ら、(あるいは私達)は生を授かったその日から絶対なき時代を生きている。大人たちはことさらに私達の生きてきた時代を失わせていくし(失われた10年→失われた20年→失われたn年)、彼らの生み出した負債の行き場を私たちに負担させるーあるいは負担させうるーという未来の青写真を私たちに押しつけ続けてきた。ITの発達は、我々に多くの新たな創造の場、あるいは労働の機会を与えたが、今後は我々の職を奪っていくというし、我々が生きるこの国に目を転じれば、向こう30年の甚大な自然災害の危機が叫ばれ、それが各所で具現化していく様がまざまざと見せつけられ続けてきた。では、旧来からの危機、すなわち戦争や飢餓の危機がなくなったかといえばそうではなく、むしろそれらが再生産されていく過程がより顕在化し、人間本性の醜悪さが丸裸の状態で我々に押し付けられるようになった。私達の未来は、多重の危機によって真っ黒に塗りつぶされ、あらゆる希望の芽は摘み取られてしまったかにも見える。

 

少なくとも、私達の世代は、こうした「お先真っ暗感」に対し「悟り」で対抗しているようにも見える。それはもはやポストモダンではない。ポストモダンは、絶対の無謬性を打ち壊すことで多角的な視点を切り開き、未来への確かな目線を我々に与えたが、打ち壊された絶対の代替を提供しはしなかった。ポストモダンを乗り越える思想をポストポストモダンとすれば、私達はまさにその思想のもとに生きようとしている。

 

ちなみに、これだけ書いておきながら私は悲観主義者ではなく、極度の楽観主義者である。私達は、無邪気な夢、あるいは単純な物語を依枝として生きていくことを許されていないが、未来に対して思慕を持つ力まで奪われたわけではない。進歩主義という大きな物語を破綻せしめたのがポストモダンだが、それは、私たちに、新たな物語-語られる方式において単純性を持たないが-を紡ぎうる機会を与えてくれたと解釈してもいいのかもしれない。それは小さな物語と解されるかもしれないが、ともかく、楽観できる面がなくもないと開き直っている。これが悟りという思想であるならば、私は間違いなく悟っている。

 

新たな物語を紡ぐ行為のうちに、必ず行われることが過去への回顧である。実態としては恐らく粗暴であった過去は、時間によって浄化され美化される。実感に則さず語られる歴史からは、あるいは実感という係累から抜けだした教訓めいた善さのみが引き出されうる。恐らく、一度相対化されたがゆえに、善的なものとして改組された過去の絶対性はもう一度焼き直されるだろう。これが表題によるところの「ポストポストモダン社会のモダニズム」である。

 

やはり具体例がないと論というのは宙空を彷徨うこととなるというのがこの論から得られる最大の結論かも知れないがともかく、今少し綴ることとする。近代の良さがあるいは見直されているかもしれないと最近よく感じることとなった。多角的な視点という呪縛から解き放たれた自己に関する自己の言説の重要性が再認識されているように思う。タブーであった諸言説が再度見直され、もう一度語られ始めたとも言える。それらの言説は、「戦後」という一つの時代、あるいは物語の上に立った、それらの呪縛から解き放たれた諸言説である。

 

常々、歴史は繰り返すと思う。人間は昔と似たようなこと(失敗と成功の経験を含む)を、別の手法で焼き直し続け、その円環において過去を乗り越えていく。脱近代の先にある現代は、もう一度中世を、あるいは近代を発展的に繰り返し、カッコつきの「進歩」を続けるだろう。それこそが歴史の理であり、恐らくからして正しい生き方である。あるいは、こうして自己を正当化していく生き方こそがポストポストモダンであるのかもしれない。