ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「男」であるとはどういうことか

高校時代の国語の授業であったが、坂口安吾の『ラムネ氏のこと』という作品がある。国語の授業では他にも、梶井基次郎の『檸檬』や森鴎外の『舞姫』等心に強く残る作品を多数鑑賞したが、今回はこの作品について取り上げる。

 

早速であるが、引用である。

 いはゞ、戯作者も亦、一人のラムネ氏ではあつたのだ。チョロチョロと吹きあげられて蓋となるラムネ玉の発見は余りたあいもなく滑稽である。色恋のざれごとを男子一生の業とする戯作者も亦ラムネ氏に劣らぬ滑稽ではないか。然し乍ら、結果の大小は問題でない。フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変へてきた。それだけでよからう。
 それならば、男子一生の業とするに足りるのである。 

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 昨今、失われかけているかに見えるが、「男子たるもの」という気概がある。「男の子なんだから泣いちゃいけません」や「男に二言はない」といったある種の道徳観念は未だ日本社会に残っているといえるだろう。男女共同参画や男女平等といったことが幅広く語られるようになり、性に対する見方は『ラムネ氏のこと』が著された戦前から見れば著しく変化していると言えるが、やはりどこかで「男だから…」という思想は我々の頭をもたげる。『ラムネ氏のこと』は私に、このことを深く考えさせてくれた作品である。

 

私は男である。このことは生涯を通じて変わらない。私は中高一貫の男子校に通っていて、この作品に触れたのもそこでのことである。周りは男ばかり、男子校という社会において男であることは前提であり、しかし、その特殊性に皆が気づいている、そんな環境であった。

 

男だけの環境であることは、すなわち自己の性を強調し再考する必要がないことを意味する。「女子」の目線を気にしなくていいから、変に肩張った「男らしさ」を演出しなくてもいいし、あるいは「男的である」ことの下世話な側面を変に覆い隠さなくても良い。その環境にあって我々は自然に「男」であって一人の自然な男性として生きていた。そのような環境で生きていた私にとって、私らしく生きることは「男」らしく生きることと同義であった。私らしく生きるために突きつけられた、私にとっての「男子一生の業」とは何かとずいぶん長く悩んだことを記憶している。

 

 

男は皆ヒーローに憧れるものだと、私は勝手に決めつけている。男子はだいたい、小さいころ、アンパンマン仮面ライダーに熱中し、皆こぞってスポーツ選手や時の有名人を目指す。歳を重ねてそうなれないことがわかった後も、歴史上の偉人に熱中し、様々な娯楽が生み出すヒーローに憧れる。いつしか、そうなりたいという欲望を隠すようになった後も、相変わらずヒーローに熱狂することには変わらない。「自分は何かを為すのだ」という夢想的な夢を男は容易に捨てられない。殆どの男性が、そんな夢を童心を詰め込んだ宝箱の中にしまいこんでいるはずである。

 

あの悩みからそこそこ長い時間が過ぎたけれど、残念ながら私は私の業を見つけられていない。『ラムネ氏のこと』を読んだあの日から、私にとってのヒーローは、「男子一生の業」をなした男になった。私は未だにヒーローになりたい欲望を抑えきれていないらしく、常に私にとっての業を探し続けている。

 

最近になってからだが、私のこの意識こそが、私を助けてくれているのではないかと思い始めた。自然に男として、生きる目標にこの作品はなってくれているのだ。たとえ道に迷ったとしても、生きる先が暗闇であったとしても、この作品が私に与えてくれた自意識が明確な目標として私の今を正当化してくれている。アイデンティティの一部として、この作品は私の中に組み込まれている。

 

何冊かあげようか迷った本がある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や池波正太郎の『真田太平記』がそれである。いずれも私にとってのヒーローの成功と苦悩を描いた作品である。やはり私は男であったからこういう英雄譚が好きらしい。ありのままの男としての様々な生き方を、青春時代から今に至るまで私に示してくれた全ての作品に、特に『ラムネ氏のこと』に感謝したい。私は未だにヒーローになりたいのだ。

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