読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

私が私であるということ

アイデンティティという語がある。また、本ブログでも度々取り上げるがモラトリアムという語がある。カタカナ言葉としてこれほど浸透している語も他に見当たらないのではないかと思うくらい両語は日本語の中で相応の地位を得ている。

 

「ようは自分ってなにもんだよ」なんていう問が問われ始めたのは、近代以降、「人間」の再発見が為されてからであると言われる。嘘つけ絶対昔の人だって絶対迷ってたぞと私は頑なに信じているが、恐らくその悩みを語り、あるいは残す術を前近代までの庶民は有していなかったことは確かであろう。我々だって、アイデンティティというつかみどころのない、しかし何とも我々に親和する語がなければ自己存在の同一性の不在について言葉を通して認識することは叶わないかもしれない。今回は、若者目線で見たアイデンティティについての落書きである。

 

E.H.エリクソンという人がいる。両語を考察し、両語を世間に現在の意味において広めた人として結構有名である。少し詳しい人ならば、彼のライフサイクル論等も知っているかも知れない。私も名前だけは知っていたが、その考えに触れたのはつい最近のことである。彼の思想は常に「アクチュアル」な事実と理論とを行き来して作られるとえらーいせんせー(西平直)は指摘しているが、かなり説得力ある言説である。日本語で自己同一性や猶予期間と言われたって、あるいはぐぐってみたって両語の本来的な意味は全く当を得ないのに、誰しもがすんなりなんとなく理解できるのである。実際、特にアイデンティティは非常に広い意味を持っていると先述のせんせーは解説してくれていて、一言で定義できる単語でないのは確かである。本稿ではふんわり、「自分が自分であるに足る芯」とでもしておいて頂きたい。皆さんが感じているアイデンティティに対する語感全てがアイデンティティの本来的な意味に内包されていると思って頂いて間違いないはずである。

 

さて、前置きで800字も書くから文章が長くなるのだからともかく、「お前誰だよ」と言われた時に、私は一体何を返すだろうか。まず、「名」を名乗り、大学名学部学年を返し、所属するサークルを語る。次に出身地・出身校・居住地(最寄り駅等)・家族構成くらいにまで話が及べば割りと真剣な自己紹介である。次に趣味、中高時代の部活、共通の友人くらいまで話が飛ぶこともある。他には例えば好きな音楽、有名人、本、興味分野、食べ物等々に話が及ぶかもしれない。何とも「私」の表面をなぞるようでむず痒い「自己」紹介とやらの実相はこんなところであろう。

 

「世界とは、事実の総体である」といううぃとげんしゅたいんおじちゃんの有名な一命題があるが、これを改変して「自己とは、「私」に関する事実の総体である」と定義すれば、上述の自己紹介を細部に切り込ませていけばいずれ自己を論理の網で解体できることになる。論考と同じ流れを辿れば、どうせ「語りえない物」に「沈黙」しなければこの論理は完成しないだろうがともかく、自己がある程度所属などの「私」に関する事実で解体可能なことは確かであろう。(自己と自我と「私」を使い分けないと心理学界隈にお叱りを受けるがむずかしーことは私の未熟さゆえカバーできないので、読者の誰かさん、ぜひ頑張ってべんつよして教えて下さい)

 

さて、「確かであろう」と言ったら逆説が来るものである。他者にとっての「私」像は、「☓☓大学の○○が好きな□□さん」くらいで定立できるかもしれないが、私における私にとっての私像はそうも行かない。人間の細胞は6年でそうとっかえされるらしいから、端的に言って今日の私と6年前の私はほぼほぼ異質である。もっと言えば今この瞬間も私の何かが入れ替わっているわけだから、常に私は変化している。猿山(男子校)でうきーと叫んでいた6年前の自分と、またもやサンマルクでこんな文章を行く宛もなく書きつくっている自分が同一の「私」であるとはにわかに信じがたい。私は間違いなく変化し続けるのである。

 

また、私にとっての私像は、場所によって、あるいは場面によってももちろん変化する。猿山で叫んでいた私と、家族の前で塩らしく叱られていた私と、せーとかいちょーとして生徒総会で皆を眠りへと誘っていた私と、一人で乱文を書き散らしている私は間違いなく違う。あるいは、友人との関係にしても、相手が男女どちらであるか、いつからの知り合いであるか、相手はどういう人であるかによってもちろん「私」を使い分けている。私が普段引っさげているこの「顔」だって相手によって、その日の睡眠時間によって、加齢によって、絶えず変化し続ける。変化しないものは、それこそ私に関する今までの事実くらいなものである。(過去の事実がどこに「在る」かを議論すると論が霧散するのでここでは避ける。)

 

アイデンティティの概念は、何も「過去から今までの自己同一性」だけではなく、「今から未来にかけての蓋然的な自己同一性」をも内包する(確か)全く不確定な未来において、卑近なところで言えば明日の私について、蓋然的に「ある」と仮定できなければアイデンティティは担保されない。これまでの思考を辿れば、アイデンティティに関する問題は、世間的に語られるようなモラトリアム期に限った問題でないことは明らかである。

 

 

今回は特にまとまりがないので強引に論を閉じる。私がこれまでどうあって、今どうであっていて、明日、1年後、10年後、50年後どうあろうとも、それは同じ「私」であることは自他共に恐らく確かである。アイデンティティは、それらを貫く一意のものには恐らく限定されない。アイデンティティは、様々な時間的、空間的階層においてある一定の「私」をまとめ、同一化させる概念であろう。例えば昨日の私と今の私を統一するアイデンティティもあろうし、友達の前の私と一人の時の私を統一するアイデンティティもあるだろう。

 

何かとアイデンティティが確立されないだ、喪失されただと議論される。定立し得ない一意のアイデンティティなんてなくて当たり前なのに、皆それがほしいからもがき、ある思想のもとにそれを結実させようとする。私たちに与えられる物語が細分化し、個別化していけばいくほど、私たちは、大きな思想(物語)への思慕を隠せないようになり、一方で個別的で排他的なアイデンティティに自己を集約させようともがく。とりあえず多層的で多様なアイデンティティの在り方を認識するともう少し生きやすくなるかもしれない。無論、一意な同一性に全力でもたれかかる気楽さは至上のものがあるのだが。

参考:西平直(1993),『エリクソンの人間学』,東京大学出版会