ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

私のヒーロー

少し前のことであるが、競泳の北島康介が引退した。実績については、これ以上付け加えることはあるまい。私の小さい時から今に至るまで、間違いなく彼はヒーローだった。

 

私は水泳を9年やっていた。そんなに早くはなかったけど少しばかり真剣にやっていた。様々つらいこともあったし、何度やめようと思ったかわからないけど気づいたら9年も続いていた。

 

私の一番得意な種目は平泳ぎだった。初めて平泳ぎを覚えて以降、一貫してそうだった。一番苦手な種目はクロール、後半はバタフライのほうがクロールより早いなんて事態に陥り、果ては背泳ぎのほうがクロールより速かった時期すらある。ともかく、そんな私にとって北島康介はヒーローだった。当時、イアン・ソープやマイケル・フィリップスといったスーパースターが競泳界を席巻していたがやはり私のヒーローは北島だった。

 

 

Heroという語は、ギリシャ語のherosに由来し、「半神」あるいは「保護者・守護者」の意が原義であるという。古今東西、あらゆる”物語”にはHeroが登場し、我々を時に導き、悲哀へと誘い、あるいは我々の勇気を奮い起こさせた。Heroは常に、半分神のような存在であり、我々の存在のあこがれであり、その意味で我々の自己を守ってくれていた。

 

「物語」という語は様々な次元を内包する。小説はもちろん、歴史や我々の人生、時代も恐らくこれに含まれる。誰かによって「語られる」対象、あるいは「語られた」物はすべて物語と呼んでもいいかもしれない。ともかく、すべての物語の相にあってヒーローが存在する。ヒーローなき物語を私は想像できない。ヒーローの引退という自体は「私」という物語に重篤な欠陥を生み出す。

 

アイデンティティ・クライシスなんていう長いカタカナ言葉がある。アイデンティティ-端的に言えば自己同一性-を失うということは案外こういうことからも始まるのかもしれない。私の同一性、すなわち過去から今、そして未来に至るまでの私に関する筋書の一端が欠けるという自体をこの語で表すならば、今の状況はまさにこれである。

 

無論、物語のヒーローは一人ではない。私にも多くのヒーローがいて、私の物語を成り立たせてくれていた。男なんて所詮子どもから進化しないから、いつの時代も私の未来を支えるのは、私のヒーローへの思慕である。

 

この意味で北島は、私にとっては幼心を思い出させてくれる”過去”のヒーローであった。小さいころ、自己の限界を知らず、自分はヒーローになるんだと純粋に思いなしていたあの頃、私は北島になりたくて日々練習していた。人間というのは、成長とともに、明日への諦めを身につけるものである。幼心に在った、「今日の私」より「明日の私」の方が進歩していて10年後の自分はヒーローになるんだという純粋な思い込みを持ち続けることは残念ながら我々の発達段階が許さない。北島は相変わらず私にとってヒーローだったが、思慕の対象としてのヒーローではなくなっていった。

 

未だ現役で、私の幼心を思い出させてくれる、私にとってのヒーローに、野球の松坂大輔がいる。今の彼がどうであろうと、彼は未だに私のヒーローであり続けるし、小さい時と同じ純粋さで彼の活躍を祈ることができる。

 

私にとって、北島や松坂のハイライトは2004、5年頃のそれである。具体的にどの泳ぎがとか、どの試合がとか言うのではなく、あの頃の活躍の姿こそが私にとっての偶像である。レオン3世をして聖像禁止令を発布せしめたのもわかるくらい、当時の彼らをかたどった偶像は私にとって大きな存在を依然占める。

 

偶像をすべての依枝とすべきではないだろう。しかし、それは宝物としてとっておくに値する「子ども」の残り香である。家中に残る小さい時の卒業アルバムや写真と同様、私の心のなかには彼らの偶像が飾られていて、私はたまにそれを見返して、一人「子ども」になることができるのだ。やはり、物語にヒーローは欠かせない。