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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

「教育」の射程 ~教育とは何か~

教職課程の特別活動論の授業内であったが、「教育とは何か?」について学生に答えさせる場面があった。かなり大雑把な議論であったが、まあ喋りたがりというのはそんな程度のことでも反応してしまうものである。

 

「教育」という語ほど片手落ちで理解される語も少ない。遍くほぼほぼ全ての日本に暮らす方々は学校教育を受けてきたと思うが、だいたい「教育=学校教育」という定式が我々には定着している。家族や共同体からの躾や、我々自身の学びは「教育」からは引き剥がされ、学校で、同じ箱(教室)の中で、せんせーがしゃべる話を目をこすりながら、あるいは窓の外を眺めながら、あるいは机に突っ伏しながら聞くものが、あるいは問題集や参考書とにらめっこしながら頭に叩き込む行為が教育であると思っている人が多いように思う。

 

「教育」を英語で言うと?という質問に対してeducationという答えが返ってくる。間違いなく正しい。pedagogyとかいう奴は間違いなくオタクかキチガイか天邪鬼で性格の悪いやつかあるいはそれら全てである。(pedagogyはどちらかというと学問領域である「教育学」を指す語だが一応教育の意味もある)まあどちらも原義はあまり変わらない。educationは引き出すという原義があり、pedagogyは少年を導く、引っ張りだすの意である。教育は訳語であるので、欧州の原義を参考にすれば、教育とは、少年を善的なる方向に教え導く、あるいは少年の善性を引き出す行為であると言える。

 

 

まあここで終わってはこのブログではない。もう少し掘り下げる。即ち、前述の定義は本当に教育のすべてを表しているかという問いである。

 

まず1点目、何か?という問に応えるためにはどうしても、問われているものに対して、5W1Hについての考察が必要となる。つまり、what, when, why, where, who, howである。「教育」という概念について聞く限り、What is this? - This is a pen.的答えだけが、「何」という問に対する答えでは断じてない。

 

さて、たくさん書くことがある。副次的な問がたくさん現出した。「教育はなぜ、いつ、どこで、どのように、だれがだれにたいして、なにを行うものであるか」という問いに答えなくては「教育とは何か?」という問いには答えられないことになる。一つ一つ答えていきたい。(これに「答え」を出せたら教育学内の様々な学問領域が不要となるが、答えのない問を考え、自己の考えを持ち発信するのが21世紀型教育とやらであるらしいのでそれを受けたはずの私の行動としては至極自然であると誰に対するでもなく自己弁護しておく)

 

まず、なぜの部分について。これについては当座、2つの視点を定置しておけば、だいたいなんとかなると信じる。社会的視点と被教育者的視点である。社会的に見て、次世代を教え育むことは大変に重要であることは自明である。技術や知識など、今まで我々が文字や口承という人間固有の営みを通じて伝えてきた資産を後の世代に伝え、それらの更なる蓄積と発展に繋げるために、教育は行われると言える。教育史的経緯を見れば、産業革命以前は、階級ごとの職業教育こそが教育であり、以降は階層間流動性の見かけ上の担保と階層(あるいは再構築された階級)の再生産こそが教育であった。この論理は近年なりを潜めているように感じるが、両親の所得と子どもの最終学歴や勉強意欲が比例するというデータや、最終学歴と平均年収に明らかな相関が見いだされるというデータを見るに現在もこういった側面は健在であるといえる。事実、公教育制度がほぼ完全に整った日本において、我々が成長過程で他の階層の生徒と交わる機会というのは驚くほど少ないし、周りの平均に従っていけさえすれば自然と固定化された階層社会に取り込まれるといえる。これについては別ポストで論じるかもしれない。

 

次に個人的視点について。「教育は人格の完成を目指す」とは教育基本法の言であるが、これはなかなかに真理をついた表現であるように思う。人格の完成、すなわち個々人にとって「人」として生きるための人格を完成するために教育は行われ、あるいは教育は受けられるものであると言える。この「人格」の部分を考察すると長くなるが、これは知識だけではなく、学力の3要件だけではもちろんなく、道徳性や協調性、他者との意思疎通能力など多くの力や性質を有した一個人格が想定されていると考えられる。一点留意するとすれば、教育基本法における「人格」は、あくまで個々人によって、あるいは個々人が暮らす社会によって同定されるものであり、社会が求める人格それだけではないということである。何らかの障害をお持ちの人にとっての「完成された人格」は健常者と同じではないだろうし、今これを書いているサンマルクの隣の席で黙々とスマホをいじっているおねーさんと、疲れた顔でメール処理しているリーマンと、授業ぼっち受講をたくさんキメて一人鬱々と駄文を量産している私にとっての目指されるべき人格はやはり違うはずである。「人格」はそこまで国民全てを画一化するほど厳格な定義付けを行っている単語ではない。(旧教育基本法制定→学習指導要領試案策定までの流れは中々愉快であるがあまりにも長くなりすぎるので割愛する)

 

すこし書きすぎているが、個人的視点においてもう1点、極めて現実的な話をすれば教育は個々人の社会に対する生産性を向上するための手段として受けられるという見方ももちろんある。大学受験や高校受験をする時、学校の進学実績、あるいは就職実績を基にせずに選ぶ層はほとんどいないだろう。事実、文学部のほうが経済学部より偏差値の高い大学を私は知らないし、最上位層の大学を除いて大抵偏差値と平均年収は比例しているようにも思う。今日、先生におべっかを使い、あるいは1年ほど、目の前の参考書とにらめっこすれば将来お金持ちになれる、というマクロ的には正しいがミクロ的には間違いなく虚構である物語に我々は囚われがちである。だが、この物語に基づいて、教育のなぜの部分を語ることもあながち間違いではない。教育とは元々、個々人が自己の価値を高めるために行われていたものであり、この理由は必ずあげられるべきである。

 

 

Whyだけで既に2800字に到達して気が遠くなっているが続ける。次にWhen,すなわち「教育はいつ行われるか」について考える。この部分は大変に誤解が多いので確認しておくが、何も教育は0歳から22歳(大雑把に言って)の子女を対象にのみ行われるものでは断じてない。文科省管轄下の幼小中高大等各種教育期間だけが、教育を行う場ではないのである。(これは後述する)教育とは、現代的見方をすれば人が生きている間は常に行われる行為である。生涯教育(以前の言い方をすれば社会教育)の概念が、近年徐々に浸透してきているように思う。大学卒業後の社会人に対しても、英会話教室があり、大学の公開講座があり、あるいはニュースで偉そうな人が中身の無いことをいっているのを聞いたり、スポーツジムでインストラクターにメニューを組んでもらったり、お医者さんにかかったり、いろいろなところに学びがあり、教育の場がある。すべての道において最先駆者であることは不可能で、ほぼ全ての生きていく課程で出くわす領域において先駆者による教えの場面がある。

 

学校教育≠教育ということを言いたいというのがこの記事のメインテーマの一つであるから少し続ければ、教育は何も8:30-15:30の時間内で行われるものでもない。ご家庭で行われる会話一つとっても、あるいは部活動、友達との会話、目の前で起きている様々な事象に対して教育的効果が潜み、教育機会が存在する。八百屋のおっちゃんの小咄が、学校のせんせーのおねむなお話よりずっと勉強になったこともあるだろう。教育は、生きている限りにおいて行われるものである。

 

さて、次はWhere、すなわち「教育はどこで行われるか」に移る。もうほとんど答えを言ってしまったが、どこにあっても教育は行われる。明示化されていなかったり、それが教育であると認識されていなかったりするだけで、我々は日常から多くを感じ、考え、自己の成長につなげている。こうした日常の感性(経験と言い換えてもいい)はそのまま個々人の人格の完成に寄与する。こうした経験のうち、今流行の神目線で当人に対して善的であると見なされる経験を得ることのみを教育としたところで、何も学校の、課程内にとどまるものでは断じてない。

 

さくさく進もう。次にHow,すなわち「教育はどのように行われるか」である。これにはマクロ的視点からミクロ的視点まで、網羅していたら全集が組めそうなくらい答えがある。学校教育一つをとっても各教科には各段階ごと(小中高)の教育方法が研究されているし、特別活動という領域で部活や文化祭などについても(ちょっとだけ)研究されている。あるいは各地の塾や、個別の英会話教室などでは受講生の能力を向上させる手法が死活問題として研究されているし、家庭教育やヒドゥン・カリキュラム等、潜在的な教育についても研究されている。あるいは、教育行財政の分野では、教育を行う機関の行政的体系や財政についての研究もなされているし、教育法の分野では、教育関連法の整理や未来について研究されている。教育に特化した心理学、すなわち教育心理の分野が確立され多くの研究者が日夜、「どのように」の最適解を見つけるために努力しているし、教育に関する過去の偉人達の業績をまとめどのようにを解き明かそうとする教育史や、教育思想の分野もある。こうしてみるとなんと多くの学問分野が「どのように教えるのか」という問いに答えるためにあるのかと思うが、とにかく、こればっかりはいくら駄文を書き連ねたって答えられる問ではないので省略する。

 

次に、Who、「教育は誰が、誰に対して行うものか」である。これについてもほぼほぼ考察済みである。教育は、決して教師-生徒の関係性にある一種の権力構造の中で行われる営みではない。生徒-生徒、自己-他者、親-子、客-店など多くの社会的関係性の中で、社会に生きる人間に対して行われるものである。随分大雑把であるが、だいたいこんな感じでいい。

 

最後に、What、「教育は何を行うものか」について。教育は、共同体の諸相にあって、教育的に善い事を行うものであると最初に定義したい。教育的に善い事-すなわち被教育者の人生にとって善い事-を行うということは、その善さを全ての教育者が画策し、自己の哲学に基づいてそれを実行することが求められるということにほかならない。少なくとも意識的に教育を行う人(教師・親等)はこれについてミクロにもマクロにも思考すべきである。「何を」の部分を細分化してみれば、教養や専門、道徳や倫理、他者協調等様々な要素が見出されるがそれについてはここでは論じない。最初の定義は私の直感であり、論理だっていないことをご容赦いただきたい。

 

さて、頑張って副次的問に答えきった。最後は適当すぎて我ながらひどい。だいたい教育学徒と言ったって未だゼミにすら入らぬペーペー学部生の言論である。大目に見てほしい。

 

本題に戻る。「教育とは何か」という問いに対してこうした思考を勘案して一言で応えることは極めて難しい。ここまで大風呂敷を広げてしまうと、「教育とは、我々が人格完成のために自他から受ける諸係累の総体であるなんて」荒唐無稽で意味不明な(自分でもよくわかってない)定義をするしかなくなる。「教育とは、少年を導くものである」だとか「教育とは躾である」だとかそういったものは全て「教育」という語の曖昧さと多元性に内包されてしまう。

 

「教育」という語がある種の宗教性を持つという指摘を誰かが指摘していたのを読んだことがある。全て、「教育的配慮」だとか「教育的価値」だとか「教育的」をつければ免罪符的に作用しがちであることは間違いない。「教育的」という語は「健康的」だとかいう語と同様否定しがたい語感を持たれがちである。問を許さない答えこそが宗教であるなんていう格言があるが、この格言に従えば教育というごは宗教性を有していると言っても何ら間違っていない。教育という語の曖昧さと多元性は同時にそれを、「わからないもの」として定立させ、「なんか大事そうなもの」として宗教性を付加する。

 

 

「教育とは何か」という問は、「宗教とは何か」とか「生きるとは何か」とかそういった問と同様、明確な答えを持たない。教育の射程は、あらゆる我々の生活一般にまで引き伸ばしうるし、故にそれを学校や家庭といった単位で区切って考えていくことが重要になる。教育という語に潜む多元性は中々にクセモノであり、我々を煙に巻きがちである。