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ある教育学徒の雑記

脳裏の落書きの保管場所

大学受験を乗り越えるということ

手が滑って(?)自分のTwitterにこのブログを晒してしまってから、案外多くの人に「読んでるよ」と言っていただけることが多くて戦々恐々としている。だいたい言語には発話される方向性が必要であるのだが、私のこれは、ただ自分の雑感を自己理解欲求を満たすために書き散らしているものであることを改めてご承知おき頂きたい。

 

さて、前回に続き大学受験の話である。前回のポストは以下をご覧頂きたい。

高校時代面識のあった最後の後輩たちがついに受験の闇に飲まれようとしている。多くは私と似たような事をして高校時代を過ごしてきた子たちだからだいたいこの時期まで、大学受験を意識した勉強なんぞしてきていない。いろいろと引退していざ高3、いくら進学校でも流石に受験が脳裏にちらつく時期である。(高3の9月10月まで行事や部活に精を出させる奇特かつ大変素晴らしい進学校も多いが)少し早めに始めていた同級生を見て焦り始め、自分がわずか10ヶ月後に大学受験のその日を迎えることに怯え、それでいてできるできない以前に範囲も全て終わっておらず何から手を付けてよいかわからない、ただ今まで自分の高校時代を貫いてきたものを引退という形で喪失し、勉強における自己位置はおろか、高校における自己位置さえもわからない、高3の4月という時期はそんな時期のようにも感じる。

 

センター試験同日模試」というものがある。受験生になりゆく高2諸氏の不安を最大限に煽る模試であると思うが、この模試ではある教科については割りとできるが、ある教科については全くできないという状況にだいたいなる。その凸凹を1年かけて整地しどんな問題が出ても対処できるようにしなくてはならない。にも関わらず大体高2の冬というものはろくに勉強もできずただ時間だけが過ぎていく時期であり、高3という節目にあって初めてその現実が自らに襲いかかり、嫌になるものである。

 

4月以降、順次模試が行われる。河合の全統記述や全統マーク、駿台ベネッセマークや駿台全国、その他各種冠模試等、範囲を終えてもいない生徒たちを偏差値で縦割りし不安感を煽って予備校の売上に貢献させようとする姑息な「模試」であるが、受けないというわけにもいられない。ある人にとっては、「始めるのが遅かった」という事実が、ある人にとっては「真剣にやっていない」という事実が、あるいはある人にとっては「今の段階、今の出題範囲内においては案外できる」という事実が突きつけられる。事実がどの種類であっても受験生は不安を煽られ、先の遠さに絶望し、近い未来の不確実性に恐怖する。受験というものは、学力だけでなく精神力など人間の総合力が試される営みであることは間違いない。

 

私は何も方法論について論じるつもりはない。各教科をいつからどの程度やってどの段階でどのレベルまで完成させるか、完成のさせ方はいかようにすればいいか等いくら書いても書き足りないし、あるいはその人の学力レベルや勉強意欲、志望校によって大きくアドバイスは変化するものである。だいたい方法論が完遂されるご立派な受験生活を送れるのであれば、その人は恐らくアドバイスなんぞなくても受かるに違いない。私は、受験生へのせめてもの慰みとしてそれを乗り越えるメリットについて少し書き散らしたい。

 

私の大学受験は、なんとも言いがたい結果に終わっていることは以下のポストをご覧いただければわかると思う。 

一応受かるには受かったが…という感じであり、大変真面目に「志望校」を目指していらっしゃる/いらっしゃった皆様には大変参考にならないことは重々承知である。しかし、今思えば私の大学受験は、私にとって大変有意義であった。ただ辛いかに見える大学受験も悪いことばかりじゃないんだよということくらいは言ってみたい。

 

まず勉学面について、確かに受験期は辛かった。僅かにできるようになったと思いたかったが結局できなかった数学、覚えても覚えても抜け落ちる英単語、英文法や世界史用語、合ってるやろと思って出しても評価されない現国など辛かった経験を上げればきりがない。行き帰りの電車内は単語帳に費やし、毎日毎日空いた時間は焦燥感と背徳感に追われ、変わるまいとしながら変わってしまう自己を嫌悪した。やってもやっても終わらないしただひたすらにつまらないし、塾や学校の予習だけやってあとは何もやらないなんて時期があったのも事実である。私は死ぬほどの楽観主義者だったから模試でどんな点数が出ようが大抵ケロってしていたが、そんな私でも気が気じゃない時期はあった。10月頃、世界史の範囲をとりあえず終え受験予定科目全ての範囲を一通り終えてから少し楽しくなったことを記憶している。様々なところでようやく知識が繋がり始め、少し問題が解けるようになっていった。様々なところで論じられる「勉強法」のうちの一つが現実味を帯びて感じられるようになったのもこの頃である。それまでは本当に何がなんだかわからなかったし、ただただつまらない義務感に苛まれたものであった。私があくてぃぶらーにんぐ()等と煽り知識注入を多少擁護したりする背景はこの体験に基づくところが大きい。

 

受験を終えて、その知識が真に役立つものに変わっているかは残念ながら人それぞれである。最後までそれを苦痛として頭に叩き込む類まれな精神力で受験に殴り勝った人を私は知っているし、そしてその人は大学生活を十分に満喫しているが、その知識そのものを嫌悪してしまっている。あるいは、知識そのものが受験のために特化され、受験以外の用途で出てこなくなる人も多い。先述した大学入試制度改革も凡そこの点の改善を企図している。何はともあれ、私は受験で得た知識が役立つ場面は割と多いと感じている。大学における学問の場において、あるいは旅行先や日常の事物に対して、大学受験でつめ込まれた知識は案外新しい知見を与えてくれる。

 

大学受験で得る知識の中には、大学受験というある種強制力を伴った脅迫がなければ絶対に触れない知識も多い。そもそもあんなにつまらないものをすすんでやろうとする奴は相当のドマゾか、大学受験なんてなくても知識を獲得しに行こうとしたであろう真に意識が高い人たちである。しかし、触れない知識が役立たないかといえばそうではない。多くの知識を背景に物事を考察すると、Wikipediaの単語ごとの記事を読むよりはるかに多面的で大局的な見方を手に入れることができる。案外受験知識というのも悪く無い。

 

次に精神面について。再三繰り返したところであるが、これが恐らく最大の有意義な点である。つまらない科目も含めて、先の見えない長い道を手探りで後ろから追い立てられ、周りからの無責任な煽りを受けながらゴールテープを探していかねばならない。そもそも、ゴールテープだって固定されているわけではなくて、自分の目指すところに合わせて長い道上の可視化されていないある地点に引かれているだけのものである。ただがむしゃらに、そこに足を踏み入れた自分を恨み、過去の自分を羨ましがる。それらの様々な係累を乗り越え、ある成果を得るところに大学受験の最大の利点がある。

 

何かをやり遂げた経験は、いくらあったって損するものではない。また、何か失敗から立ち直り克服する経験にしても、そんなものである。それは間違いなく人生の糧となるし、あらゆる教育的効果の中で最善にして最重要なものであるかもしれないとさえ思う。長い時間、時に寄り道し、息抜きを繰り返し、その場に立ち止まり、あるいは逆戻りしながらも、なんとか前に進み何らかの成果を残す経験を手に入れられれば、之以上の学びはない。それを手に入れるための今日の勉強だとすれば、まあ耐え切れないこともなくもない(としておかないとまず今日を乗りきれない)

 

最後に友人について。私は幸い友人に恵まれた。同じ目標に向かい、同じような事を一度にできる経験というものはそう多くないのではないかと邪推する。労苦に共感してくれない人が多い一方で、こんなにも多くの共感者を得られる事も少ない。結果は各々であるが、彼らと何らかに共に立ち向かえたことは大変幸福であったと信じている。

 

 

 

忘れられない風景がある。センター試験後、受験までの日数がもはや二桁ですらなくなっていた日、その日の勉強を終え、一人凍える渋谷駅前のヒカリエを眺めていた時の風景がそれである。何度もその風景は大学受験の期間を通して繰り返された。あの香りや景色、思いに至るまで美化されながら私の心に残っている。もはや引くに引けず、ただ不安だったはずであり、明日が来ることに恐怖していたはずである。であるのに、不思議と焦燥感はなく、ただその日の充足感とある種の諦めと明日もまた来るという当然を実感していた事を覚えている。語彙力がないから形容しきれないが、しかし得も言われぬ不思議なしかし善い記憶として私の脳裏に焼き付いている。何故か私の受験のハイライトはこの風景である。

 

その記憶があるから、私は自分の受験生活は善かったのだと一人で自己正当化している。曖昧な、しかしやってみたから分かることである。

 

 

大学受験は長い。そして誰にとっても、すなわち親にとっても、先生にとっても、塾のチューターにとっても、「あなた」の大学受験は初めてである。誰も、あなた自身だって、あなたの明日はわかりっこない。ちょっと頑張ればちょっと何かいいことがあるかもしれない。あるいはちょっとサボっても、あまり変わらないかもしれない。自分自身と折り合いをつけていく修練の場としても大学受験はちょうどいい。ガンバレという無責任に押し潰されず自分自身と進めていくしかないのだ。健闘を。