ある教育学徒の雑記

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「大学入試制度改革」への一所見 ~理想の入試とは何か~

少し前の事になるが、文科省内「高大接続システム改革会議」が最終報告書をまとめ、珍しく教育系の記事が新聞の1面を飾っていた。当日の読売新聞3面の記事の書きっぷりがあまりにも非一貫的でこれが天下の読売新聞教育部かと悲嘆に暮れていたのだがともかく、どうやら文科省は大学入試を改革したいらしい。

 

ここ30年来、中等教育は変革を続けてきた。1980年代の校内暴力や落ちこぼれ問題に端を発し、ゆとり教育の20年が終わり、脱ゆとりが掲げられ再度の変革がなされた。デジタルデバイスの発達によりICTを取り入れた先進的な教育方が様々考案され、「アクティブ・ラーニング()」とやらが中等教育の現場に導入されるらしい。

 

「21世紀型教育」と名付けられた教育、すなわち「不可能性の時代」にあって答え無き問に立ち向かい、それを様々な知識の元多角的に見つめ、論理的に考え、自分なりの意見を発話する能力をつけるための教育が志向されようとしている。「教育」が「人格の完成」を目指すものである以上、時代ごとの完成された人格像の変化(あるいは時代が要請するところの人格像の変化)に伴い教育内容が変化するのは大いにわかるところではあるが、このような能力が果たして公教育政策として取り入れられるに値するかどうかは若干疑問がある。まあこんな話はどうでもいい。今回は大学入試の話である。

 

 

今回の大学入試制度改革の背景にあるのは、こういった中等教育の変化に対して、旧態然とした「ペーパーテスト」を課す大学入試の実態がある。中等教育最大のアウトプットは残念ながら大学入試である。いくら中等教育単体を以ってその質的変化を訴えたところで、出口の形式が変わらなければ変革は達成されない。「大学入試を変えよう!」「高大接続システムを見なおそう!」という議論には大変に正当性があることは認める。しかし、否定される「ペーパーテスト」は果たしてそんなに悪者だろうか。今回はそんなことがいいたくてこの記事を書いている。一応報告書は軽く読んでこの記事を書くつもりではいるが、あかでみっくらいてぃんぐとやらをして真剣に一言一句を引用の上検討するほど労力をかけられないことをご了承頂きたい。

 

センター試験が記述式になるらしいぞ」という情報なら諸氏はお持ちであろう。実際報告書にもそう書いてある。「もっと思考力を使った・・・」「学力の3要件を満たすような・・・」なんて謳い文句が踊っている。あるいは、大学側に対してももっと「あどみっしょんぽりしー」とやらにあった学生を取れと煽り、所謂「学力の三要件」を総合的に図りうる入試へと転換せよと論じている。そのための手段として、「もっと記述式を入れろ」やら「もっと一問一答形式以外の問題出せや」ということらしい。某W大学や四谷のJ大学に於かれましては大変よろしいご気分でこの答申を見ていらっしゃるに違いない。学生の側にも大学に進学する目的意識を求め、調査書や学修計画書の提出するように言っている。要は今までみたいにわかりやすい入試はやめろと言ってるらしい(報告書読むの疲れた顔)

 

一応受験の荒波に揉まれた身分として一言、言うならば「つ ら い」に尽きる。この報告書に書いてあることの殆どがまさに正論であり、善い教育についての論理的な哲学で一貫されており、実際私が常々感じていることの多くが文章化されている。W大学を批判することが教育学を学ぶ理由の半分程度を占めている気もする私だが、確かに、この報告書に現れる諸問題の一つの顕在化としてW大学は好適であり、この点においても私の気に入ること間違いなしの報告書であるに違いない、はずなのである。しかし、この報告書を読んで思うことは「つ ら い」に尽きるのだ。

 

私は、ほとんど文系一般入試のことしかわからず、わずかに周りの影響でAOや推薦の入試制度について知る程度であるが、「覚えゲー」状態の入試の楽さについては常々感じるところである。たかだか2000円もしない用語集を死ぬ気で覚えれば日本最高峰の私大までカバーできるのである。学び手は不毛な記憶力勝負に、ある人は意義付けを行い、ある人は自慢の記憶力でほとんど何もせずにそれを乗り越え、ある人は自分を追い込むことで時間でそれに殴り勝とうとする。そこに技能勝負はほとんど介在しない。塾に行けば「よく出る単語」とやらが教えられるが、大体の場合において最後はまる覚えを強いられるから意味が無い。英語についても古文についてもだいたい似たようなことが言える。

 

一方、記述入試は大変に厳しいものがある。覚えたはずの膨大な知識から必要と思われるものを取捨選択し、 なるべく少ない字数の元、修辞等を一切入れずに簡潔明瞭に述べることが求められる。この簡潔明瞭の点が曲者で、このせいでT大に振られたと未だに信じているのであるが、ともかく記述式は大変難易度が高い。また、記述式は学校の色が出る。東大がほしい学生と一橋がほしい学生、京大がほしい学生は明確に違い、それが入試問題にも色濃く反映される。学校ごとの対策が求められ、故に塾の役割が相対的に多くなる。端的に言ってカネがかかるのだ。

 

現状において、私大は間違いなく救済である。Wの哲学に共感してだとかKのあどみっしょんぽりしーに共感してなどは完全に副次的であり、偏差値で上から選んでいるのが現状である。大学入試は、中学入試よりも遥かに多くの生徒がそれに臨むはずであるのに、選択の方法論は遥かに単純でつまらない。一部自らの学校に意味付けを持たせることに成功した学校(ICUAIUSFC等)を別として、基本学生数の多い総合大学にそれを求めることは無茶である。

 

論が霧散しているので本論に戻す。すなわち、覚えゲーは楽なのである。楽であるということは金がかからないということであり、遍く生徒にとってワンチャンあるということに他ならない。自分なりの方法論のもと、なんとか目の前のものを覚えれば入学できるのである。一方、記述式ともなればそうもいかない。指導できる先生が回りにいなければまさに詰みであり、指導環境を買うにもまた金がかかる。更に、それに対して払っている金や時間は必ずしも成果を生まないかも知れないという不確定要素までそれにはつきまとう。極めて大雑把な懸念を表明するとすれば、記述式の推進は教育格差を助長するんじゃね?ということである。

 

私は、私大は記述式と記号式の両方の形式から受験生が選択する形式の入試を採用しろと考えていたりする。何も全員が、記述式の力を持っていなくたっていいのではないかと思うのだ。ただ自分なりの方法で、ただがむしゃらにあるいは楽をして、目の前の用語集を攻略した猛者がいたっていいと思うのだ。一方、記述のほうが楽だという学生だっているかもしれない。答えが一つである問題など、理想空間における数学的あるいは法学的命題以外ありえないから、自分なりに考えて自分なりに自分の正しいと考える答えを創り出すほうが、与えられただいたい合ってそうな選択肢から価値判断をするより楽な人がいるであろう。

 

私の思う理想の入試は、それぞれが自分の学び方を発露させながら、しかし厳然と「勝負」できる入試である。スポーツは時として残酷なまでに勝ち負けを分けるが、それゆえに両者にとって清々しい納得感を与える。少なくとも目の前の今日の勝負について、自分は負けたのだとどんなに悔しくとも納得することができる。入試も本来的にはこうあるべきであると私は思う。

 

個々人に得意な土俵がある。覚えることが得意な人、話すことが得意な人、書くことが得意な人等色々ある。大学は、どんなことが得意な人を取りたいのかを認識し、それらの人が活躍できる土俵を用意し、公明正大なルールのもと厳然とした勝負を行えるようにすることが重要ではないか。そして、その方法論として記述式だ記号式だAOだ推薦だというのは考えられればいいのではないか。

 

本報告書は、まさに理想的であり、読売新聞の指摘を少し借りるとすれば現実化された理想状態を的確に述べている。それは賛成である。しかし、肩をいからせた実現を想定した一貫した論理は、それそのものを絶対化する危険性をはらむ。本音を言えば私は何かそんな論理は鼻につくからけなしたかっただけなのであるが、しかし劇的な改革には必ず副作用がつきまとう。それらを誰か、拾いあげるべき人が拾い上げながら、集団としてなんとなく善い方向に進んでいくべきであるのではないかと思う。